辿るは夢十夜7
――こんな夢を見た。
卯の花色の褥に姉が横たわっている。彼女を瞻視する私の喉からは、幼子を思わせる甘え声がせり上がってきていた。熱せられた硝子が溶け出すように、熱い瞼から涙が溢流して止まらない。
濡れた諸目で捉えても、姉は綺麗だった。柔らかに撓る明眸は儚さを宿した玲瓏玉のよう。月桂に絵取られた肌は透けてしまいそうなほど青白く、色を失くした唇と相俟って羸弱さを引き立たせている。秒針が進むよりも遅い速さで繰り返される、姉の瞬き。一回、二回と睫毛が上下する。それが最後となり、瞑目してしまうのではないかと、私は不安で堪らなかった。
姉の乾ききった唇が「もう死ぬの」と吐息混じりに告げる。日毎衰弱していく姉を見続けていた私は、その日がいつか来ることを分かっていた。いつか、が来なければ良いと幾度も願った。胸を灼くように揺れる心臓の、この拍動を一欠片でも分け与えたかった。
私は涙を拭って姉を映した。けれど、姉の眼の中に酷く情けない顔をしている自分を見つけてすぐ、涕涙していた。
嫌だ、死なないで。咽喉から迸る痛哭を言葉に出来ているのか、不安になる。聞こえてくる草木の音色に重なるのは、嗚咽だけのように感ぜられるのだ。
泣きじゃくる私の頬に、冷たい手が触れる。痙攣した細い腕を持ち上げて、姉が雫を拭い去ってくれた。悲しいくらい力の感じられない指が私の頬を下っていく。
「ねえ、七瀬。死んだら埋めて欲しいの。大きな真珠貝で穴を掘って。墓標には、真っ白な栞を置いてちょうだい。そうして墓の前で、待っていてくれる?」
死んだら、なんて言葉を受け入れて頷けるほど、私は大人ではなかった。初めこそ首を左右に振り続けていられたが、姉の潤んだ懸珠が細められてゆくのを見てしまって、何も言えなくなる。余喘を保っている時でも姉の微笑はとても綺麗で、色褪せてしまいそうな記憶と結び付く。桔梗の花が星のようで好きなのだと、そう微笑んだ姉はもう、あの淡い紫の星に触れられないのだ。
花を撫ぜる姉が好きだった。花言葉を教えてくれる姉の楽しそうな目顔が、好きだった。もう諧謔を交えることすらないのだと思ったら、細い糸みたいな希望に縋りたくなる。
いつまで待てば良いの、待っていたら会えるの。張り裂けそうな喉で叫いたら、姉は無理に笑うように、噛み締めた唇で柔らかな曲線を描いた。
「ほんの少しよ。けれど、陽が昇って、沈んで……それを繰り返す中で、雨に打たれるかもしれないし、雪だって降るかもしれないわ。それでも、貴方は待っていてくれる?」
これ以上声を絞り出せそうになくて、私は黙ったまま点頭した。どうすれば姉が朗色を湛えてくれるのか、そればかり考えてしまう。せめて姉を困らせたくなくて私も微笑もうとした。途端、「待っていて」と、哀切に塗れた声が私に刺さった。莞爾として笑んでいた姉のかんばせが、歪んでいく。潤んだ射干玉の虹彩が、真情を流露させていく。つられて咽び泣いた。目の前が掻き曇る。苦しげに、それでも笑おうとする姉の姿が、霞硝子の向こうにあるようだ。
姉も私を困らせたくなかったのかもしれない。私の前では、きっと姉らしく微笑んでいたかったのだ。一体どれほどの軫憂と恐れを押さえ込んでいたのだろう。
待っている、と何度も首肯をしながら目元を擦った先で、解語の花が綻ぶ。事も無げに頬を緩める姉は、私の好きな顔をしていた。思い出の中でも優しく破顔している姉を、回視すればするほど、哀しみに侵される。消えそうな残燭を守りたくて、姉の袖を引いた。姉もまた、縋るように早口で紡いでいた。
「大丈夫だから。少し眠ったら、良くなるから。だから少しだけ、待っていて」
姉が静かに、瞼を下ろした。眠ってしまった姉の、白く柔らかな輪郭を、奔星に似た涙がなぞっていた。私も大粒の雫を零して、頬がべた付くほど啼泣した。そうする内に枯渇して乾いてしまった角膜が痛くなるまで、目を擦った。
やがて旭日が差し込み、そこでようやく私は立ち上がった。部屋の隅にある棚を漁って、貝殻を探す。見つけるなり庭へと降りて、手にしていた真珠貝で穴を掘り始めた。鋭利な縁をした大きな真珠貝は、沢山の土を掬った。滑らかな貝の表面に指の腹を滑らせて傾ければ、土は砂糖みたいに落ちていく。湿り気のある土の香りが、どこか懐かしさを連れてくる。
隣を見れば姉がいるような気がした。花の種を手の平にのせて微笑む姉が、瞼の裏に映される。私は一人きりの影を地面に落とし、そこへもう一度、真珠貝を半分くらい沈めた。何度も何度もそれを繰り返して、やっとのことで、姉を埋められる程の穴を掘ることが出来た。
抱えた姉をそっと暗がりに寝かせて、そこへ土をかけていく。だんだんと、姉の姿が見えなくなる。姉が本当にいなくなってしまうような気がして手が止まった。しかしどうにか土を掬い続けた。姉に頼まれたことを果たしたかった。姉の姿を掩蔽した土へ、手の平を滑らせた。地面を慣らすように撫ぜてみれば、陽光を浴びているからか、人肌のような温かさを感じた。
私は再び部屋へ戻り、机上に置かれていた短冊形の厚紙を手にした。庭へ足を運んで、大きめの丸い石を地面に置くと、白栲の栞をそれに立てかけた。日輪を受け、仄かに暖かくなっていた紙から手を離しても、不思議と優しい熱が指先に残っていた。
私は墓石を前にして、庭の上に腰を下ろした。姉が早く良くなることを希い、何も描かれていない栞を凝望した。
そうしていると、いつの間にか紅鏡は沈み始めていた。晩靄の中で見えにくくなった墓石と墓標を、尚も眺め続けていれば、やがて陽が昇る。経過した一日を、一つ、と唇の裏で数えて、長閑やかに吹いた風へ目を細めた。
どこか遠くで鳥が鳴いているのを聞きながら、ぼんやりとする。幼い私に、あれは鳩の鳴き声なのだと姉が教えてくれたことを、思い起こしていた。
気が付くと、空に太陽がいなかった。代わりに居待月がやってきて、薄らと墓を照らしていた。暫くしたら空が東雲色に染色され、燦然たる陽が雲間に掛かる。二つ、といった形に唇を動かしてから、昨日と同じように黙然とする。
いつしか、陽が昇って落ちてゆくのを、何度数えたか分からなくなってしまった。もう十を超え、二十も超えたのではと思うけれども、まだ待たなければならないのであろうことは確かだった。
姉の声が聴きたくなる。姉の優しい体温に触れたくなる。もう一度姉の暖かな双眸で私を映してもらいたい。その日が来ることへの希求が只管に募った。
ふ、と空気を吸い込むと、泥と埃を水に沈めて混ぜたような、湿った香りが鼻腔を通り抜けた。
雨の匂いだ。そう思った時には、涙雨が沢山降って来ていた。額から流れて口に入り込んだ滴は少しだけ塩辛い。濡れたままでは風邪を引いてしまうけれど、姉を待たなければと考え、寝ぼけている時みたいにぼんやりとしていた頭がはっと冴えた。
栞が濡れてしまう。雨で灰色の斑点が付けられた真白な栞に、手を伸ばした。この栞が破けてしまったら、姉に二度と会えないような気がしたのだ。
愛おしむように栞を撫ぜてみると、濡れた部分から、淡い青紫色の星が姿を現す。ぽつりぽつりと雨に降られる度、色はより濃くなり、それが星ではなく花であることが分かる。
桔梗の花が鮮明に現れた頃には、雨はもう上がっていた。栞を持ち上げたら、雨雫が朝露の如く花弁を伝って、重力に引っ張られる。水溜まりの中に染み込んだそれは、曙光で美しいくらい輝いていた。水を含んだ栞を少し強く握ると、滲み出した水はどこか温かく、冷え切っていた手を包み込むように暖めてくれた。
栞の中で、桔梗の花が優しく綻ぶ。この花が好きなのだと笑った、姉のように。
顔を上げれば、太陽と有明の月が、遠い空の中に浮かんでいる。穏やかな光は見知った虹彩のようだった。視界が陽射しに満たされ、霞んだ月を溶かし始める。
「私、待っていられたよ」と呟いたら、栞が風もなくふわりと揺れた。