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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第一章
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辿るは夢十夜6

 四角いテーブルを挟み、文月と榊田が顔を合わせて座っている。御厨は文月の隣の椅子を引いて、テーブルに置かれている、自分の分のカレーに顔を近付けた。


「すげぇ美味そうっすね!」

「頂きます」


 銀のスプーンをカレーに差し込み、滑らかなルーを掬い上げてみれば、その中に可愛らしい人参が浮かんでいた。


「星、ですか?」


 文月が零した笑声に、榊田の微笑が混ざり合う。隣で「美味い! 熱々で、良い感じの辛さが最高っすね!」と興奮気味に感想を述べている御厨と、二人の空気の温度はあまりに違っている。


 星のような形をした人参とルーを口に含んだ文月が、満足そうに頬を緩ませたのを見て、榊田は上品に笑った。


「それ、星ではなくて桔梗の花のつもりなんです」

「桔梗の花……? 珍しいですね」

「七海が、昔育てていて。花の形と色が好きなんだって言っていました」


 文月の脳裏に、七海の写真が過った。そこでふと、榊田に問おうと思っていたことを思い出す。百合の花ではなく何を咲かせるか、悩んだ末に、咲かせる花は七瀬の好みに合わせたいと思っていたのだ。ほんのりと口内に広がる辛さに「美味い」と呟いてから、文月は本題に入る。


「七瀬さんも、桔梗の花が好きだったりしますか?」

「ええ。七海が七瀬に、誕生日プレゼントとして桔梗が描かれた栞をあげたんです。綺麗な花だねって気に入っていました。でもあの子、その時は桔梗っていう花の名前すら知らなかったんですよ」


 面白い思い出話を語る顔は、たまに陰を見せる。長女が亡くなり、次女が聖譚病に侵されては、笑っているのも辛いのではないだろうか。今更そのことに気付いて、文月はなんとも言えない、喉の奥がざらつくような、形容しがたい気持ちになった。


 不安や悲しみを取り除きたいと思えど、それを出来るような間柄でも、そんな人柄でもない。それでも諦めきれないのか、文月の口元は無意識下で優しげに撓んでいた。


「食事の後で構わないのですが、その栞を見せてもらってもよろしいでしょうか?」

「勿論、構いませんよ。あ、文月様さえよければ、七瀬の為の物語に、桔梗を出してもらえませんか? きっとあの子、喜ぶと思うんです」

「奇遇ですね、私も同じことを考えていました」


 くすり、と吐息だけで笑い合う二人が、互いに互いを気遣っている空気感。漂うカレーの匂いに溶けて行く仄かな気まずさは、自然に霧消していった。食器の音ばかりが響くようになって、何かがおかしいと感じていた文月は、カレーを食べ終えてからようやく、おかしいと思った事柄を理解する。


「榊田さん、ご馳走様でした。――ところで御厨、君は何かに取り憑かれたか? それとも明日の天気を雨にする作戦か?」

「っ違う! お前と榊田さんが真面目な話してるし、俺のグルメリポートが完全に聞き流されてるのが悲しくなって黙ったんだよ!」

「あら……ごめんなさい、聞いていなかったわ」


 立ち上がりざまに怒号を放った御厨へ、申し訳なさそうに榊田が謝罪をした。榊田にそんな顔をさせるつもりは無かったからか、御厨が慌てて謝り返そうとする。しかし、それよりも文月の叱責が飛ぶのが先だった。


「何故彼女に謝らせているんだ。君が謝るべきだろう。美味しいカレーを頂いておいて、ご馳走様でしたと礼を言うことも出来ないのか、君は」

「元はと言えばお前のせいだからな? 榊田さん済みません、コイツのせいで」

「おい、責任転嫁をするな」

「カレー、本当に美味かったです。ご馳走様でした」


 リビングから去って行く御厨に、もう一度「おい」と言いつつ追いかけようとした文月は、はっとして振り返った。視線を送られた理由を榊田は分かっているようで、彼女も椅子から立ち上がる。


「七瀬の部屋に行きましょうか」

「七瀬さんが寝ている部屋は、彼女の部屋ではないんですか?」

「あそこは寝室です。七瀬の部屋は、元々七海と二人で使っていた部屋なので、物が沢山あって寝るスペースが無いんですよ。だから、二人共あの部屋に布団を敷いて寝ていたんです」


 七瀬が寝ている和室の向かい側――リビングの隣室へ、木製の扉を開けて中に入る。部屋の左右に一つずつ、勉強机と本棚、クローゼットが置かれていた。どれも色が違うだけでデザインは同じになっており、左側は薄桃色が基調になっていて、右側は黄緑色が多い。


 榊田は右側の勉強机に近寄って、引き出しの一番上を開ける。未使用の文房具やアクセサリーなどの小物の上に、一枚の栞が置かれていた。真白な短冊形の紙の下方に、美しい桔梗の花の絵が描かれていた。上方には、洒落た筆記体の英字で、花言葉が綴られている。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 栞を受け取った文月は、榊田に頭を下げた。


「七瀬さんの所に戻って、贋作を書いてきますね」

「お願いします。どうかあの子を……起こしてあげてください」

「ええ」


     (三)


 元の原稿を全て丸めて捨てて、一から書き直した文月が筆を止めたのは、窓の外が濃藍で染まってからだった。空が暗いのは夜のせいだけではない。月の光を遮る雨雲が、夜景に灰色がかった影を落としていた。自然の音を劇伴にして、七瀬の物語を読み上げるつもりだったものの、流石に雨が降ってしまっては窓を開けるわけにはいかない。


「雨……」


 庭の木の葉から落ちた一滴ひとしずくのような呟きが、文月の唇から発せられた。書き上げた原稿の最後の一枚を、文月は力強く握り締める。皺を作ったそれを部屋の入り口の方へ軽く放り投げて、新しい紙にインクを塗っていく。最後の句点を打つまで彼の手は止まらなかった。


「榊田七瀬」


 部屋の隅で欠伸を漏らしていた御厨は、文月の声に目を瞠った。


 患者に向ける普段の彼の声色とは違う。それは御厨や親しい者に放たれる音に似ていた。けれどもそこに含有されている、鋭さを帯びた優しさが、それを聞いている御厨の苦笑を誘う。


 文月は本当に、不器用の塊だ。気付けば御厨は、唇の裏でそう呟いていた。


「贋作を聴いて目を覚ませ。君の物語は現実にしかないのだから」


 七瀬の目覚めを切に願う言葉は、静かに揺らめく蝋燭の火のようだった。溶けてしまいそうな冷静さを唾と共に飲み込んで、文月は細めた瞳の視点を、自身の綴った物語へ定める。


 感情を吐息に乗せ、涼やかな声で、七瀬の朗読を遁走曲の如く追いかけ始めた。

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