やがて高瀬舟でお別れを13
二条は、自身が担当することとなった市の様々な人と関わりを持ち、散策を趣味としていたようだ。そんな彼が聖譚病患者の報告を受け、治療し終えるまでの話が、五章に分かれて幾つも書かれている。ただ、彼は長編の贋作を書くことが多かったようで、この本に載せられている贋作は、どの章でも一部分だけとなっている。
自身の恩師の話であるからか、それとも綴者として共感出来る部分も多いからか、文月は没頭し、頁を捲り続けた。二条が患者を治療していく様子を読み進めながら、文月は自身が治してきた患者のことを頭の片隅で思い出していた。
捲り、また捲り、文字の羅列をひたすらに瞳で追いかけ続け、やがて文月の手と目が止まる。最後の頁に差し掛かったからではない。見つめている紙の内容は、まだ四章だ。
どの章も患者の名は伏せられており、この章でも、簡単に『少年』とされている。文月は、その少年のことを、知っているような感覚に陥っていた。交通事故に遭って片腕を失くし、夢を失った少年のことを。
少年の親は、息子を治して下さい、という一言だけを二条に放ち、仕事に出て行ったという。二条はその時に感じた気持ちを素直に書き表していた。『こんなことを思ってはいけないのかもしれないが、あまりにも、この少年が憐れに思えた』。
文月の唇が、震える。喉が狭くなるように、呼吸が苦しくなる。咽喉から溢れた息は、泣き出しそうな声を、今にも上げてしまいそうだった。
読み進めることが、怖くなる。恩人として慕った彼になにをどう思われたか、母親や父親に自分がなんと言われていたのか、知るのがただただ怖かった。というのに、文月の手は先へ先へと進みたがる。何度も、紙の擦れる音を響かせる。
文月は、両親に『どう接すれば良いのか分からない』と思われていたことを知った。二条に『彼の止まった時間を進めてやりたい』と願われていたことを、知った。向けられていた感情を、いくつも知っていった。嗚咽を漏らし、吐き出しそうになりながら、文月は、読み続けた。
まだ少年を治療していないと言うのに、章は五章へ移り変わる。その初めで二条は少年を治療した。起き上がった少年について、彼は語っている。
『彼は実直で、真っ直ぐで、前しか見えないあまりに、自分自身を見ていなかった。いや、自分から、目を逸らしたかったのかもしれない。喪失感を鮮明に象徴している自分の姿を、見たくなかったのかもしれない。これまで彼の身に起こったことは確かに、結末を違えたパンドラの匣だ。けれどギリシャ神話のパンドラの箱であったのは、彼自身ではなかろうか。希望を見せることが出来て良かった、と、これほどまでに思ったのは、彼が初めてだった。それは私が、後の彼の言葉に、救われたからだ』
やや古ぼけた質感の紙が、濃い斑点を滲ませる。文月は乱れた感情に呼吸を詰まらせた。なんとか息をして、しゃくり上げる時みたく息を跳ねさせ、唇を噛んだ。
残りの頁数はもう、あまりない。文月は、霞んだ字を必死に辿った。紙の色を濡らして変えてしまうことに、頬を流れるものへの不快感に、文月が何かを感じることはなかった。夢中になって、意識は文字の中だけに呑まれていた。
『今まで自分は、ただ自分に贋作を書く力があるから、それを仕事としてこなしていただけだ。けれど彼を救った後から、自身を「人助けの機械」ではなく、しかと人として大事に思えるようになった。彼――前章から今章にかけて登場した、片腕のない少年だ。彼は私に憧れて、綴者を目指し始めたらしい。なんと、利き腕ではない腕を懸命に動かし、文字を書けるようにするところから始めたようだ。それを聞いて、不思議な気持ちが湧き起こった私は、彼に会いに行った。彼は私に礼を言い、あの真っ直ぐな眼をして、私に憧れていると、私のようになりたいのだと言った。私のしてきたことが、命を救うだけではなく、その人の心まで救っていることを、この時初めて知った。彼は私に希望を見せてもらえたと言ってくれたが、希望を見せられたのは私の方だ。人を救えるというのは、なんと心地良く、また、なんて救われることなのだろう。仕事としてではない。救い救われる喜びに、身を投じる。そう考えた途端、私は義務的な笑顔を作れなくなった。私そのものの顔で、笑みを象れた。それはとても、気持ちが良い。
日記のようにこれまでを綴ってきたが、これでおしまいにしようと思う。私を救ってくれた患者に、心からの、感謝を』
二条の思いや過去の自身へいくつもの情感を湧かせながら、文月は歪んだ両目をそのままに、唇だけでくすりと笑った。
「私を救ってくれた患者に、心からの、感謝を……」
微かに震えた、白く細い指。それが、最後の一文をそっと撫ぜる。瞼の裏に一瞬だけ映された少女を撫でる時のような、優しい手付きだった。
二条が綴者として送った日々を、救われた瞬間を、文月は自身の思い出と重ねていた。
文月は、自身を救い出してくれた彼のようになりたいと何度も願い、脇目も振らず追いかけ続けてきた。いつか届くようにと、手を伸ばし続けてきた。
今ようやく、触れられそうなほどに近付いたと、感じる。『聖譚伽』を自身の人生に置き換え、自分の物語を綴れそうなくらい、二条の人生に幾本もの感情を結びつけた。
そうするうちに、過去の自身や二条に抱いた多彩な思いが、複雑に絡まっていく。乱れたままのそれが真っ直ぐになることはなく、さながら丸められた糸屑のように、解けぬ塊となる。
恩師に近付いたことを実感し、その背に触れようとした手は、張り詰めた糸の先で固まった。なんという感情の糸が絡み合っているのか、もう見て取れないほどにきつく結ばれた塊が、文月の後方で地面に縫い止められていた。
進もうとした先へは、行けない。遠ざかって行く二条を追いかけられもしない。枷が許す範囲内を彷徨うことしか、出来なくなる。
それは、ひたむきに優しく正しく在る二条と、自身の為に二条みたく在ろうとしている文月の距離が、これ以上縮まらないことを表しているようだった。
まるで真作と贋作。偽物は本物に、届かないのかもしれない。
それでも文月は、止まれなかった。いつの間にか迷い込んでいた真暗な帳の中を歩けるだけ歩いて――やがて、自身が何を求めて歩んでいるのか分からなくなる。何をしようとしていたのか思惟し、枷となった糸屑を解かなければと思い至る。
感情の名が一つとして分からないあの糸屑を、どう解けば良い? 自身の枷とは? 自身は、何に縛られている? どうなりたい? どうなればいい?
楔が引き抜かれたように、疑問が溢れ出す。答えはどこにも記されていない。黒一色の視界の中で、微かな明かりが差し込んだ。
かくして、緞帳は上げられる。
――聖譚伽を読んでいた文月の手は、力なく腰の横へ落ちた。不規則な呼吸音が声を伴い始める。
意識を失った彼の体が、音を立てて椅子から転げ落ちた。冷たい床に頬を打ち付けるも、彼の瞼は持ち上がらない。しかし薄く開いたままの口は、微かな声で語り続けていた。
「黒紅を落とし込んだ水面に、灯光を宿した波紋が広がっていく。硝子筆で文章を書く際、そう見える洋墨瓶の中を、私は気に入っていた」
読み上げて行くのは、聖譚伽の冒頭から、その先へ。
何分が経とうが、何時間が経過しようが、陽が落ちてまた陽が昇っても、文月は目覚めなかった。
倒れたままの彼を最初に目にしたのは、一紗だ。狼狽して、救急車を呼ぶか否かと悩んでいる合間に、七瀬と御厨もこの場に訪れる。一紗よりも聖譚病に詳しい七瀬と御厨は、まず聖譚について調べた。そうして、その場に居た者で協力して、長編の贋作を認めた。
『贋作聖譚伽』を手にした七瀬が、文月を見つめてから深く息を吸い込む。はっきりとした声で発せられた彼女の声は、文月に届くと信じているようだった。
「文月先生。私、まだ、綴者になれていないんですよ。先生がいないと、まだ、駄目なんです。起きて下さい。最後まで、面倒を見続けてください。私を、助けてください」
泣き声にも聞こえる懇願の響きが、彼に届いたなら、それは彼の心臓を強く揺らすだろう。
彼は救いの無い辛さを、よく知っているはずだ。