やがて高瀬舟でお別れを12
(三)
五十嵐の家の前で御厨と別れ、日暮れ前には帰宅をした文月がいつもの部屋へ行く。そこでは、まだ七瀬が鉛筆を手にして、机上の紙と向かい合っていた。足音で気が付いたのか、彼女の顔が勢いよく廊下側を向く。
「お帰りなさい、文月先生」
「ああ。何の勉強をしていたんだ?」
廊下から見て、出窓の右手側にある椅子の後ろへ、文月はアタッシュケースを置いた。椅子の背もたれを引き、アタッシュケースを背にして座り込む。
テーブルの端の方に置かれている数冊の本をちらと見て、それから七瀬の手元にある原稿用紙に目を落とした。文月が予想を口にする前に、彼女が回答する。
「贋作を、書いてみていたんです。でもなんだかしっくり来なくて」
「読んでみても構わないか?」
「え、あ、はい」
「……夢野久作の懐中時計、だな」
真作の懐中時計は、とても短い話だ。箪笥の向こうに落ちた懐中時計を鼠が見つけ、誰も見ていないのに何故動いているんだと笑う。「人の見ない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と懐中時計は返し、更に続けて「人の見ない時だけか、又は人が見ている時だけに働いているものはどちらも泥棒だよ」と言われた鼠が、恥ずかしくなって逃げ出す――そんな終わり方となっている。
七瀬の贋作の中では、懐中時計と鼠のどちらも人として書かれていた。誰も掃除をしない場所を掃除している学生と、それを笑う学生の話だ。台詞は真作とほとんど同じになっていた。
「なるほど。学生と掃除に置き換えたのは面白いな。実際にあり得そうな設定だ。だがそう変えたのなら、台詞も場面と情景に合わせて変えてみたら良いと思うぞ」
「台詞かぁ。泥棒だよって部分に上手く当てはまる言葉が全く浮かばないんですよね……」
「なら、言葉を探す前に、この台詞がどういう意味を持っているのか、自分なりに深く考えてみると良い。それから、登場人物の二人の関係性や人柄について考えるのも良いかもしれないな。実際に綴者として贋作を書く際に、患者の人柄を上手く表せるか、という部分も重要になってくるぞ」
「んー……難しいですね。試験で出される、贋作を書きなさいって問題は、患者は自由なんですか?」
「いや……こういった過去を持ち、こんな思いを抱えている患者が、この本に魅せられた。その患者の為に贋作を書きなさい、と言うように書かれている。真作の内容が印刷された紙も渡される為、知らない作品でもどうにかなる。ただ、制限時間は二時間だったはずだからな、速読も出来るようになっておいた方が良いかもしれない」
文月の説明を受け、七瀬が両手を伸ばしてテーブルの上に片頬を押し付けた。唸り声を上げながらも、彼女は片手を上げる。
「頑張り、ます」
「ああ。君が贋作を書いて持って来れば、いつでも感想や指摘を言うぞ。とりあえず、好きなだけ書き、好きなだけ読むと良い」
「はい。文月先生が出張に行っちゃうまで、後二ヶ月だから、一ヶ月は沢山読んで、次の一ヶ月は沢山書く、ってやってみようと思うんですけど、どうですか?」
「良い考えだ。確かに、沢山読んでから書いた方が、様々な言葉や表現を知った上で書くことが出来る。ただ、書きたくなった時はいつでも、書いてみてくれ」
褒められたことに、七瀬が大びらに喜びを示す。柔らかな弧を描いた唇から、小さく嬉しそうな声が漏れていた。破顔一笑したままの彼女が何度も頷く姿に、もっと喜ばせてやりたい気持ちが湧いてきて、文月は、そうだ、と閃く。
彼女の為に本を探してくる際、過去の試験問題等も無いか探してこよう。胸の中にそう呟いて、文月は七瀬と他愛のない会話を再開させた。
(四)
明くる日、電車で往復二時間半という時間をかけて、文月は一冊の本と、数枚の問題用紙を自宅に持ち帰った。今日は出掛ける、ということを七瀬にも御厨にも伝えてあったからか、ちょうど正午になる時間というのに、文月の家には誰の影も無い。掛け時計の針だけが声を上げる中、文月はちょうど良いと思いながら、出窓の手前にあるテーブルにアタッシュケースを置いて、椅子に腰掛けた。ケースの中から取り出したのは、書置所から借りてきた、綴者についての書物だ。綴者が仕事をする様が書かれているという、日記のような本。文月は、その背表紙を見た時点で、中を開いて読みたいと思っていた。
題名は、聖譚伽。作者の名は、二条縁。
その名に、文月が惹かれないはずが無かった。書いたのが自分なら言ってくれれば良かったではないかと、自身の恩師に笑いかけたくなっていた。
弟子に読ませるのは些か恥ずかしいものなのだろう。ほくそ笑みつつ、文月はそっと表紙を捲って行く。