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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第四章
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やがて高瀬舟でお別れを11

 冷や汗を浮かべて苦笑する御厨に、文月は呆れて目を細める。


「まさか、俺が贋作を読んでいる間、ずっとそこで阿呆みたいに立っていたのか?」

「ちげぇよ! ちゃんと五十嵐さんには待っていて下さいとか色々伝えた上で、ここに戻ってきて、扉の前で座って待ってたんだよ!」

「なるほど、俺と五十嵐陽菜の話を聞いているうちに、逃げなければと思い立って立ち上がったというわけか」

「いや、立ったのは……お前が陽菜ちゃんに、死にたいなら死ねばいいとか言い出すからだ。危なく部屋に飛び込みそうになったんだぞ」

「そうか、動揺をさせて済まなかったな」


 叱り付ける時みたいに顔を顰めている御厨の前を通り過ぎ、文月は階段を下る。文月と陽菜の声か、御厨と文月の声が聞こえていたようで、五十嵐は既に階下にいて、階段を見上げていた。数段下りた文月がはたと足を止めて、仕事時に浮かべる微笑を彼女へ投げかけた。


「五十嵐さん、陽菜さんが、目を覚ましました」

「本当、ですか!? ありがとうございます……!」


 恐る恐る二階を窺っていた五十嵐の目が、嬉しそうに瞠られて煌き始める。「陽菜!」と娘の名を呼びかけながら階段を早足で上がる姿に、文月は口角を少しだけ持ち上げた。小さな足音を立てながら階段を下り、一階の廊下を数歩進むと、御厨の方を振り仰いだ。


「御厨」


 文月を追いかけて一階へ下りていきながら、御厨は疑問符だけを返した。文月の視線がそっと正面の壁に戻される。


「先刻の話だが……彼女の気持ちは、よく分かるんだ。俺も『死にたい』と、馬鹿みたく言い続けていた時がある。誰かに手を差し伸べられなければ、自分が『生きたい』とも思っていることに、気付けなかった時がある。彼女と話していて……昔の自分を、思い出してな。思わず、取り乱してしまった」

「へぇ……随分と、冷静の皮を被った取り乱し方だったぜ」

「そうか。けれどももう少し……大人になりたいとは、思う。恩師のように、優しく正しい人間でありたい。患者の言葉で過去を思い返し、それで気が立つなど、してはいけないことだった」


 普段通り、淡々としている声調。だが引っ掛かる何かがあって、御厨は文月の顔色を覗き見た。壁を睨み据えているかのような彼の目付きに、御厨は眉を下げる。俯き気味に視線を下ろした御厨が、中身の無い左袖を握り締めている彼の手に気が付く。黒いコートの袖は、深い皺を刻んでいた。


「文月……お前さ。あんまり、無理し過ぎんじゃねぇぞ」

「そう、だな……だが、程々に無理をして、正しさの先を見つめていなければ、俺はきっと生きていけないんだ」


 真っ直ぐに御厨の方へ上げられた文月の顔は、綺麗に笑みを象っている。その顔ばせを前にし、御厨は返答に窮した。首を動かして壁の上方を眺望する彼の横顔に、御厨は声の発し方を忘れさせられる。


「誰かを救うことに精を出し、何かを綴ることに励み、目標とした人物の背を追い続ける。そうしていないと不安に駆られて、後戻りしてしまいそうになるからな」


 彼が零したのは苦笑としか表しようのないものだ。それでも、普段の彼のそれとはどこか、何かが異なっている。御厨は、これまで滅多に見たことのない彼の弱い面と向き合って、如何すれば良いのか分からなくなっていた。


 二人を包む空気が息のし難いものになっていることに、文月が感付いたみたいだった。薄く笑っている彼の唇が、「済まない」と、囁きに似た音で発する。


「どうでもいい話を、してしまった」

「いや、どうでもいいとか、そんな風には思ってねぇけ――」

「さて、あの親子が落ち着くまで待って、報酬を頂かなければな。ああ、鞄を忘れる所だった……。それに帰ったら贋作高瀬舟の原稿を新しい紙に書かねばならないか。読んでいるうちに覚えたから大丈夫だとは思うが……まぁ句読点等の間違いが多少あっても大きな問題にはならないだろう」


 ぶつぶつと独り言ちる文月が、いつもの調子に戻ってくる。数刻前までの彼と今の彼を頭の中で比べるように並べて、御厨は、自分よりも背の低い彼の頭を軽く二度叩いた。


「……御厨、なんだ今のは。喧嘩を売っているのか?」

「そうじゃねぇよ。頑張ったお子様を労ってやったんだよ」

「誰がお子様だ。この後酒でも飲みに行くか? 先に酔い潰れた方が子供ということにしよう」

「それは、嬉しい誘いだな。お前の為にタクシーと救急車、どっち用意しときゃあ良い?」

「何故俺が倒れる前提なんだ」


 交わす諧謔かいぎゃくに御厨が一笑し、不服そうな目をしていた文月の笑いを誘う。文月が「全く、君は」と溜息混じりに吐き出すも、その音吐は可笑しそうに揺れていた。


 御厨は少しだけ、嬉しく思う。


 頼ってばかりで、救われてばかりだった自分が、文月の沈んだ気分を払えているかもしれない。後戻りしてしまいそうだと言っていた彼の袖を、前へ引けているのかもしれない。


 文月が陰を見せたことも、今彼が笑っていることも、御厨の中で嬉しさに変わっていた。


 昨日、彼に言われた言葉を思い出す。


 相棒。


 完全に互いを理解し合えるわけでも、互いの全てを尊敬し合えるわけでもない。好ましくない一面もあれば、相手のちょっとした発言で不快になることもある。それでも、頼り頼られ、救い救われ、信頼し合いながら共に何かを為す関係。相棒と言うのは、きっとそれに相応しい言葉だと、御厨は感じた。

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