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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第四章
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やがて高瀬舟でお別れを10

 ――五十嵐陽菜の朗読は聞こえない。いつからか、室内の静けさは贋作の語りだけが取り去っていた。原稿用紙をアタッシュケースの上に置いて、文月は立ち上がる。ベッドに臥している陽菜の傍まで行き、彼女の顔を見下ろしたら、まだ眠たげに見える瞳と視線が絡み合った。


 僅かに開いたままの唇が、何も言わぬまま吐息だけを溢れさせている。双眸の雫が蛍光灯の光を孕んで、その眼を煌かせていた。


「五十嵐陽菜さん。貴方は、聖譚病という病で眠りに就いていました。私は医者のような者です。目を覚ましていただけて良かった」

「…………お医者、さん」

「ええ。私の朗読は、届いていましたか?」

「……はい。とても、心が、引っ張られるみたいな、お話、でした」


 良かった、と顔を綻ばせ、背を向けようとした文月のコートが、彼女に引っ張られた。ベッドから上半身を起こし、慌てた様子の彼女に、文月は冷静な微笑だけを返す。コートの右袖を掴んでいる彼女の手は、震えていた。


「待って、下さい。今の話、お母さん、聞いたんですか。これから、聞かせに行くんですか。私がお祖父ちゃんを殺したって、お母さん、知ってるんですか」

「いえ。お母様は一階の方で、貴方が目覚められることを願って、待っていてくれています。祖父君のことは、貴方が伝えたい時に、伝えたい人に伝えたら良いと思いますよ。一先ず私は、陽菜さんが目を覚ましたということを、お母様に――」

「行かないで!」


 悲鳴に似た甲高い叫声が、文月の鼓膜を貫く。目を丸めたまま固まった彼に、陽菜が声を上げた。


「駄目。駄目なんだよ。私、起きちゃいけなかったのに。死にたいの。死にたいんです。だって、お祖父ちゃんがそうして欲しいって、そうしてくれたら助かるって、そう言うから、お祖父ちゃん死んじゃうって分かってたのに殺しちゃったの。でも嫌だよ。私がこんなことしなかったらお祖父ちゃん死ななかった。人殺しって死ななきゃいけないんじゃないの? お母さん達に知られたくない、会いたくない。知られないまま死にたいの。このまま、殺して。殺してください。病で亡くなったことにすればいいから。殺して。ねぇ! 私は死にたいの!」


 頬に雫を伝わせながら、喉を裂きそうなくらい苦しげな声遣いで、陽菜は叫んだ。哀哭に耳を劈かれて、文月はその顔から笑みを落とす。鋭く、けれども愁いを帯びた眼光が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。


「生きていたいとは、思わないのか」


 彼にしては低くて、針のような鋭さを伴った声だった。陽菜はしゃくり上げながらも、彼の瞳に見入ってしまう。彼はことうた。


「君の胸の内が、その思いだけで満たされているわけではないだろう? 死にたいというその気持ちは分からないでもない。死にたいと喚くことくらい、きっと誰だってあるはずだ。けれど死ねないのは何故だ? その手で自身の命を絶たないのは、何故だ? 五十嵐陽菜、死にたいのなら死ねばいい。だがここで、俺が君に刃物を渡したとしても、君は死なない」

「そんな、こと……」

「多くの人間は死にたいと簡単に口をする。というのに、当たり前のように抱いていて、同じように抱えている気持ちには、何故気付けないのだろうな。……君は、生きていたいんだろう?」

「生きたいなんて、私は」

「なら何故、目を覚ました?」


 瞳孔の、その奥深く。脳髄まで届きそうなくらい、文月は真っ直ぐな視線を突き刺してくる。陽菜は息を呑み、咄嗟に彼から手を離した。焦点を変えられぬまま彼を見つめて、陽菜は気付く。鋭利な切っ先じみた双眸に、冷たさは欠片もなかった。


「生きていたいと思ったから、未来を歩みたいと思ったから、俺の贋作で目を覚ましたのではないのか。綴者は、簡単に言えば贋作を書いて患者の目を覚ませているだけだ。けれど決してそれだけではない。過去に囚われ、それでも時が進んで行く現実から瞼を閉ざした聖譚病患者に、手を差し伸べているんだ。嫌なことばかりに目をやって、目を逸らしてしまっている希望の方向を、示しているんだ」

「希望……」

「道が見え、その道を進んでみたいと思ったから、君は、目を覚ましてくれたのだろう?」


 文月の切れ長の目が、柔らかく、弓なりに曲がる。陽菜の胸の内で、心臓が悲鳴を上げていた。優しさという熱に、心が炙られているようだった。肩を震わせている内にも、文月は温かな熱を落とし続ける。


「五十嵐陽菜。一人で抱えて苦しむのは終わりだ。立ち止まるのも、終わりだ。前へ進め。人間は、流れて行く時間の中を進むことしか出来ないのだから」

「私……、でも、私、お祖父ちゃんを……」

「確かに、罪はちゃんと償うべきだ。だが償うことで君の人生が終わらせられるわけではない。まだ、先は長いんだ。君の思うままに足掻いて、君のなりたいように変わって行くといい。人は変われる生き物だからな」


 微かな頷きと共に項垂れて、陽菜はその顔付きを陰で隠してしまう。息遣いだけが、彼女の流涕を知らせていた。乱れた息を吐き出しながら顔を覆った彼女の傍を、文月はそっと離れた。


「君の母親に、君が目覚めたことを伝えてきても構わないか?」

「……はい」

「安心してくれ。俺は仕事を終えたという報告以外、勝手に口にする気はない。過去のことをどうするか、母とどんな言葉を交わすか、そういったことは君の好きにするんだ」


 アタッシュケースのもとまで歩いて行き、文月は原稿を拾い上げる。それを陽菜の前へ差し出した。彼女はびしょ濡れの顔を上げて、首を傾ける。


「この贋作の原稿を、もし君が欲しいと言うのならここに置いて行く。どうする?」

「……貰います。大切に、します」

「そうか、良かった。――そうだ、君。君が決して孤独でないことを、よく覚えておいてくれ」


 陽菜が原稿用紙を受け取ったのを見届け、文月は彼女に背を向けた。扉を開けて廊下へ出ると、そこに立っていた御厨と、数秒の間見つめあうこととなった。

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