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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第四章
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やがて高瀬舟でお別れを9

 ――高瀬舟、という舟がある。罪人をどこかへ送り届ける為の舟だ。川を下って辿り着く先がどこであるのか、町の人間は誰も知らず、舟に乗せられる罪人すら行く先を知らされることはないという。


 罪人、といっても、勿論罪を犯した者に相違ないが、この舟に乗せられる者は皆、決して根からの悪人と言うわけではなかった。言うなれば、心得違いや気の迷いから罪を犯してしまった。そんな者ばかりである。


 そういった罪人と、護送役の役人を乗せ、高瀬舟は宵闇を映した川を流れて行く。水の音と夜風が静謐な時間を占める中で、役人と罪人が言葉を交わすこともしばしばある。自身の境遇を誰かに話して楽になりたい罪人や、愁いに沈む罪人に声を掛ける役人など、乗り合わせる人間の性質は無論、人それぞれだった。


 いつのことであったか、高瀬舟に、成人もしていない子供が乗せられた。陽菜という名の、まだ中学生である少女だ。


 護送を任された役人は、彼女が祖父を殺したということだけを聞いている。悄然たる佇まいで一言も言葉を発することなく、彼女はただ、暗く染められた川の、揺れる様だけを打ち守っていた。


 表情という表情を見せず、自身を咎めるように唇を噛み続ける罪人の姿は、この役人にとって然程珍しいものでもない。いつもなら罪人が何かを言うまでだんまりを決め込み、護送先まで送り届けるのだが、今回ばかりは彼も口を噤んだままでいられなかった。何しろ、目の前で罪の重さに俯いているのは、年若い娘だ。まだ行く先の長い少女が、これから先も一人で罪を抱え、下を向き続けるという未来を、彼は認められそうになかったのだ。


「陽菜、と言ったな。お前がこの舟に乗せられているのは、人を殺めたからだが、一体どうしてそんなことをしてしまったのか、わけを聞かせてはくれないか」


 夜の寂寞の下では、声がとても大きく響いた。役人に尋ねられ、陽菜は水面だけと向かい合っていたおもてを徐にもたげる。


 顔付きは凍り付いて固まってしまったかのようにどこも動かず、月のない夜空の如く真っ暗な黒目だけが、ひどく周章していた。役人は責めているわけでもなく、そう思われるような声柄で言葉を放ったわけでもない。にも拘わらず、陽菜は咎められているみたいに萎縮していた。


 暫時粛然とした後、陽菜はやっとのことで冷静になったと見受けられる。恐る恐るといった様子で訥々と、情感の類を押し殺した声で語り出す。


「私には、祖父を殺めるつもりなどありませんでした。気が、動転していたのだと思います。今思い返してみても、どうしてあんなことが出来たのか、自分がしたことながら、不思議でなりません。ただ、夢中だったのです。祖父は、物心付いた頃から……いえ、きっとそれよりも前からなのでしょう、私を可愛がって下さいました。そんな祖父のことを、私も好いておりました。小学校に上がってからも、祖父の家に何度も通い、大好きな祖父とお話をしたり、茶菓子を食べたりしました。そうする中で、祖父が、死んでしまいたいと思っていたことになど、私は全く気付くことが出来ませんでした。いつの、ことだったでしょうか。私が罪を犯してしまったのは、もう何年も前のことになります。まだ中学に上がっていない頃です。祖父の家を訪れたら、室内は明かりが消えていて、遮光幕も閉じられていました。けれど玄関に靴はあったので、家の中にいるだろうと思い、上がらせて頂いたのですが、中は真暗で、すぐ暗闇に慣れるはずもなく、転んでしまいそうになりながらも、祖父を捜しました。お祖父ちゃん、と呼びかけて、呼びかけて。すぐに、陽菜ちゃんかい、という祖父の声が返ってきました。それがとても、苦しそうなものだったことを、覚えています。私が暗い部屋の中に進んで行くと、黒い大きな、祖父の影が見えました。どうしたのかと声を掛けると、祖父は、これを抜いてくれないか、と、手首のあたりから伸びているものを、指差したのです。手が震えて、自分では上手く抜けない。祖父はそう言いました。こうも仰いました。痛くて、苦しい。抜いてくれれば、楽になれるから。それから祖父が、何度痛いと口にしたかは分かりませんが、何度も、呻いていました。祖父の命に関わることなのだ、ということは、その呼吸音からよく伝わってきていましたし、苦しげな祖父を前に、どうしたら良いのかも分からず、冷静な判断も出来ませんでしたから、促されるままに彼の手首に触れました。そこから伸びているものの先にも、触れました。ひたすらに狼狽する中で、それが刃物であることは、分からなかったのです。脳室が真白な靄で覆われて、中にある知識や思考が外へ出てきてくれませんでした。柄を震えながら握り締めたものの、けれども抜いてはいけないような気がしましたので、体は石のように動かなくなってしまいました。そんな時に、祖父は優しく、それでいてとても苦しそうな声で、囁きました。ありがとうねって、ごめんねって。泣き出しそうに震えた呻吟に、手を動かさずにはいられませんでした。私は大好きな祖父の為に、祖父がして欲しいということを、ただ、しただけなんです。祖父も喜んでくれましたから、自分は悪くないと言い聞かせて、ここ何年も、罪の意識を後ろへと追いやってきました。ですが、やはり、駄目でした。私がしたことは人殺しという罪であって、許されてはいけないものなのです。どうして私はあの時、祖父を救おうと考えられなかったのでしょう。どうして私は、いつも優しい祖父の悩みに、気付けなかったのでしょう。思い出してみれば悔やむことばかりです。大好きな人の為に。その思いで必死に、祖父の願うことを叶えたつもりでいました。ですが私がしたことは、殺人です。人殺しなのです。例え祖父が、私を恨んでなかったとしても、これは、私が生涯背負い続けなければならない、重い悔恨なのです」


 川ばかりを眺め入る陽菜が、そのまま舟を降りて水に吸い込まれてしまいそうで、役人は彼女から目を離せなかった。小さな水音を立てる川に、彼女の声は全て飲まれてしまった。


 彼女の言う通りだ。頼まれてしたことであっても、そうすることで当人が喜ぶとしても、それは紛うことなき罪であるのだろう。そうか、と役人が零せば、話に句点が打たれたように、彼女の顔が川から離れる。役人は、進む舟の先に何気なく目をやった。目的地はまだ見えない。うらがなしい思いにさせられる暗がりで、役人は、結んでいた唇を解いた。


「罪も悔恨も、当然どこまでも付いて来るものだ。だがそれを一人で抱え続ける必要はない。法という決まりが罪人かどうかを決めている世の中なだけであって、罪の定義が各々で決められるとすれば、人間は皆罪人だ。人の身を傷付けた者は傷害罪となる。ならば何故、人の心を傷付けた者は罪に問われることがないのだろう。何故、人の心を守った者が、命を奪ったからという理由で、罪に問われなければならんのだろうな。陽菜、お前は、お前自身や周りから見て罪人だったとしても、祖父からしてみれば恩人なのだ。あまり背負い込み過ぎることはない。流れる時の先に、明かりは灯っている。さあ、見えてきたぞ」


 言われて、陽菜は顔を上げた。高瀬舟が辿り着く先――そこにある人工的な明かりが、遠くに見える。曇った夜空を反射している水面が、星空の如く輝きながら揺らめいていた。揺蕩う明かりに、陽菜は瞠目する。


「高瀬舟の行く先は、罪人の帰る家だ。闇夜はもう、飽きただろう」


 深く暗い川を滑って、高瀬舟は、光の灯る先を目指して行った。

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