やがて高瀬舟でお別れを8
扉を閉め、廊下を進むと、すぐに階段を下って行く。居間へ向かってみれば、五十嵐はそこで黙ったまま着座していた。何も置かれていないテーブルの上をぼんやりと眺めている彼女の前に、御厨はそっと立つ。
椅子を引いて腰を下ろした御厨に、五十嵐の丸められた目が真っ直ぐ向いた。
「あ、ごめんなさい、ぼうっとしてました」
「いえ、俺の方こそ、勝手に座って済みません」
「構いませんよ。えっと……」
「そろそろ、文月が陽菜さんに贋作を読み聞かせ始める頃だと思います。俺が部屋を出る前は、文月、原稿を読み直していたんで、もうちょい時間かかるかもしれませんけど」
そうですか、と呟いて目元を細めた五十嵐は、御厨達がここに来たばかりの時に比べて、穏やかな雰囲気を纏っていた。落ち着きのなさは今やどこからも窺えない。ただ不安だけは、穏和な表情から薄らと見て取れる。
「あの……文月さんが書いた贋作の朗読を、私にも聞かせてもらうことって出来ないのでしょうか」
「……文月が、陽菜さんのことを気遣って、五十嵐さんには下で待っていて欲しいと言っていました。なので俺は、それを伝えに来たんです」
「陽菜のことを気遣って……?」
はっきりと、文月にそう言われたわけではない。だが御厨は、贋作を五十嵐に聞かせたくないという文月の心に、そんな思いがあるのではないかと推し量った。
五十嵐に贋作を聞かせたくない理由を、文月が深くは語らなかったため、ここから先の説明は自分の力でするしかない。御厨は、きょとんとしている五十嵐に、自身の言葉で文月の気持ちを語ってみた。
「贋作は、患者の人生の一部みたいなもんですから。人生の中で、親に聞かれたくないことだってあると思うんですよ。大切な人だからこそ……ずっと縁が切れない相手だからこそ、自分の心の準備が出来てから話したいこととか、あると思うんです」
「……そう、ですね。分かりました。なら私は、陽菜が起きてくれることを願って、ここで待っていますね」
「はい」
「だから、御厨さん。私のことは気にしないで、文月さんの所へ行きたいのなら、どうぞ行って下さい」
「はい――……え?」
引き攣った笑みのまま固まった御厨が五十嵐の方を見てみれば、彼女は目尻に皺を浮かべていた。母親然とした暖かな笑みに、御厨は狼狽える。御厨が動揺している理由には気付いていないのだろう。彼女は御厨を落ち着かせようと、「大丈夫です」と柔らかに言った。
「大分落ち着いて来たので、私は大丈夫ですよ」
「は、はぁ。なら、良かったんすけど。でも、俺」
「御厨さん、文月さんの朗読が気になって仕方がない、って思っているように見えたのですけど、違いましたか?」
目を、瞠った。御厨は、その言葉でようやく、文月のもとへ行きたいのならと五十嵐に言われた訳を理解する。
気になる、といったような思いを心の中で呟いた覚えがないどころか、御厨自身、自分が文月の朗読を気にしていると気付いてすらいなかった。それでも、今し方五十嵐に促され、腰を上げようとした。
自然と席を立とうとしてしまった理由に合点がいき、御厨は照れ臭そうに後ろ頭を掻く。
「……俺、小説とか全く読みませんし、あんまり興味ないんですけど」
「そう、なんですか?」
「はい。でも、あいつの朗読してる時の声は……なんか、馬鹿みたいに真っ直ぐで、ひたすらに患者への思いが込められてるみたいで……なんつーか。嫌いじゃ、ないんすよ」
五十嵐が、無言のまま相槌を返してくれた。本心を吐露している気恥ずかしさに、御厨の唇が裏側で噛み締められる。長閑やかな沈黙が降りて来ても、御厨が落ち着けることはない。何の音もしない中で、恥ずかしさが増して行くように感じた御厨は、咄嗟に開口する。
「贋作の中で出てくるものや言葉に、文月は象徴とかそういう意味を込めるんですけど、文月にとって、それは願いを込めることなんだそうです」
「願い……?」
「はい。目を覚まして欲しいとか、患者の未来に幸せがあるように、とか。そういうことを、文月は考えてるんです。だから、あいつのこと、信じていてください」
真剣そのものの御厨の双眼の中で、五十嵐が優しげに頬を緩ませていた。熱意が前に出るあまり、無意識の内に強張らせてしまっていた肩を、御厨はそっと落とす。
「文月さんも、御厨さんも、優しい人なんですね」
「いえ、俺は……。……やっぱり、上、行って来ますね」
五十嵐の「ええ」という声を耳の後ろで受け止めながら、御厨は廊下へ出た。階段を上って陽菜の部屋の前まで来たものの、そこでその足はぴたりと止まる。
部屋に入っていけば、文月の集中力を欠いてしまうかもしれない。そう考え、御厨は音を立てないように、その扉に背を預けて座り込んだ。室内に耳を澄ませて、微かに聞こえてきた声は陽菜の朗読だ。文字を書いている音が、その朗読と混ざり合う。まだ文月の朗読は始まっていなかったみたいだった。
同じような音に聞き入って、暫くすると、ガラスの涼しげな音色が響く。その余韻を、擦れた紙が消して行く。
陽菜の高瀬舟の朗読と重なって、贋作の朗読が流れ始めた。