やがて高瀬舟でお別れを6
徐に伏せられていく五十嵐の顔から、文月は思わず目線を外した。いくら贋作を書く為とはいえ、相手にとって身近な人間の死に関する話をするとなると、胸の内に呵責が渦巻く。それでも質問を重ねないわけにはいかず、文月は卓上を見入ったまま問うた。
「その死に立ち会ったのは?」
「誰も、いません。祖母はとっくに他界していましたから、祖父は実家に一人で。実家の近所に住んでいる祖父の友人が、刃物で手首を切って亡くなっている祖父の姿を見つけ、私に電話をしてくれました。祖父は、家の電気を消して、カーテンも閉め切っていた真っ暗な中で、命を絶ったそうです」
「……陽菜さんは、その時おいくつでしたか? その日、彼女は何をしていました?」
文月の頭で、彼自身想像したくもない予想が組み立てられていく。苦渋を滲ませる彼の表情を、隣で御厨が気遣わしげに見ていた。御厨は彼が何を考えているのか見当が付いているのだろう。御厨もまた苦々しさを表明していた。
五十嵐は顔を卓に向けたまま、困り眉の下で眼を右へ左へと動かす。
「ええと……陽菜は当時、小学三年生でした。あの日は……確か、朝からどこか遊びに出掛けて、昼過ぎには帰っていたと思います。祖父が手首を切ったという電話が掛かって来た時、私は料理をしていて。陽菜に、電話に出てって言ったんですけれど、友達と喧嘩でもしたのか、珍しく黙ったまま部屋に引きこもっていたので、結局料理を中断して私が出ました。その後、あの子に祖父の死をどう伝えるか、凄く、悩みました。陽菜、祖父が大好きだったんです」
「……そうでしたか。辛いことを思い出させてしまって申し訳ありません」
「い、いえっ……」
文月の声音からその心持ちが明瞭に伝わってきて、五十嵐が彼よりも申し訳なさそうな相形を持ち上げた。冷や汗を浮かべて何度も首を左右に動かす様に、彼が柔和な笑みを浮かべる。
「お話、ありがとうございました。――御厨、君は五十嵐陽菜さんの通っている中学校と出身小学校で、彼女が在校している間に死亡事故等が起きていないか調べておいてくれ」
「あ、ああ、分かった。あの、五十嵐さん、娘さんの通ってる中学校と、通ってた小学校の電話番号とか教えてもらえませんか?」
「は、はい。ちょっと待っていてください」
離席した五十嵐が文月達に背を向けて歩いていったのは、居間の奥に置かれている戸棚の方だ。木製の棚の引き出しを開けて中を漁り、彼女が二枚の紙を持ってきた。
礼を言った御厨が、受け取ったそれを眺めてみれば、連絡網のようだった。学校の電話番号が書いてあることを確認して、彼はスーツのポケットから携帯電話を取り出すと、廊下へ出て行く。
五十嵐は彼の背を見送ってから、居間に残った文月の様子を窺った。寸刻、互いに黙然としていた中で、何かを考え込んでいるように眉を寄せていた文月が、人好きのする笑みを五十嵐へ向けた。
「五十嵐さん、陽菜さんの部屋に案内して頂けますか?」
「あっ、はい。こちらです」
文月は足元に置いていたアタッシュケースを手に取り、五十嵐を追いかけて廊下へ行く。玄関の方で電話を掛けている御厨をちらと見てから、二階へ上がった。二階の一室に案内され、中へ入ってみれば、整頓された室内で一人の少女が眠っていた。小さく響いてくる声は淡々と、確かに高瀬舟を読み上げている。
ベッドで眠る陽菜を見ていた目を室内へ向けた後、文月が床を指差した。
「あの、こちらに腰を下ろしてもよろしいでしょうか?」
「気が利かずに済みません……座布団をお持ちしますね」
「いえ、大丈夫ですよ。気になさらないで下さい。こちらで贋作を書かせて頂くだけですから、居間の方でごゆるりとお待ち下さい」
「は、はい」
五十嵐は深く頭を下げた後、「失礼します」と言い置いてから部屋の扉を静かに閉めて行った。
「苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが――」
流れる朗読を耳に留めながら、文月は絨毯の敷かれた床に正座をし、自身の前にアタッシュケースを置いた。中から原稿用紙とガラスペン、インク瓶を取り出して、鞄の口を閉める。横向きに倒したアタッシュケースを机の代わりにし、原稿用紙を上に乗せる。用紙よりも右手側にインク瓶とペン置きを配置すると、そのペン置きにガラスペンを預けた。
ペンを手に取ることなく、原稿用紙の方眼を眺め入る。その升目に何を書くか、熟考する。
思い巡らせながら、やおらに瞼を下ろした。瞼の裏側を見つめ、高瀬舟を聞き続ける。語られる情景を真黒な目の前に描きながら、文月がそうしていた時間は、何分ほどだったろう。
部屋のドアノブが回された音に、ようやく文月が目を開けた。
「なんだ、瞑想でもしてたのか?」
黒い手帳を手にしている御厨は、室内に足を踏み入れると扉を閉め、アタッシュケースを前にして胡坐をかいた。文月は自分の斜め前にいる彼に、目だけを向けた。
「そんなところだ。それで、どうだった? 教えてもらえたか?」
「ああ。短い説明をしてから教えてくれって言ったら不審に思われたからな、懇切丁寧に説明してなんとか教えてもらったよ。小学校も中学校も、死亡事故はゼロだ」
「そうか」
文月の面差しが険しいものになる。原稿用紙を睨むように見つめる彼の言葉を、御厨は黙って待っていた。歪められた彼の唇が開いて、吐かれた息は重く感ぜられる。
「御厨、今からする話は想像だ。だから気を悪くせず聞いて欲しいんだが……。五十嵐陽菜は祖父の自殺に、意図せずして手を貸してしまったのではないだろうか。祖父は、部屋の電気を消し、カーテンを閉め切っていたそうだな。いくら昼間でも、そうすれば暗闇を作れるはずだ。もし陽の当たらない部屋であれば尚更暗くなる。だが、暗闇といえど黒一色なわけではない。目が慣れれば、家具や人が影絵のようにぼんやりと見えるだろう?」
「まあ、そう、だな」
「そんな中で、祖父の影へ五十嵐陽菜が近付き、声をかける。もし祖父が、自殺を試みたものの死に切れなかった……正に高瀬舟の喜助の弟と同じ状態だったとしたら、これを抜いてくれないか、と頼むかもしれない。暗闇の中でそれがなんなのか分からずとも、『苦しい。抜いてもらえたら楽になれる』などの言葉を祖父にかけられれば、彼を好いていたという五十嵐陽菜なら、言う通りにしてしまったかもしれない。抜いた後で、息絶えた祖父に声をかけたり、自分が引き抜いた刃物を目にしたりして、己の所業に気付いたかもしれない。だからこそ彼女は――帰宅後、黙り込んで部屋に引きこもった」
胸糞が悪い。そんな思いが、御厨の顔に表れている。彼が眉間に深い皺を刻んでいる合間にも、文月は続けた。