やがて高瀬舟でお別れを5
捲る度に擦れる紙の音が、いつの間にかしんとしていた中で、さらさらと流れるように鳴った。
「まあ、お前が楽しみだって言うんなら俺もこれ以上は気にしねぇけどさ。――っと、患者の家の場所だが……良かったな、ここから横断歩道一つ渡った程度の所だぜ」
「そんなに近所だと言うのに、俺よりも先に君の方へ情報が入るのか」
「まぁ、患者が発症したのは昨日の昼頃みてぇだし、俺がその情報を知れたのは、小春が目を覚ましたってことを医者に伝えに行った時だしな。聖譚病が治ったっつったら、そういえば今日書川中学校で聖譚病患者が出たって話し出してくれたんだ。だからそこから詳しく聞いた感じだぜ」
ほう、と呟いて、文月は持ち上げたカップに口を付けるも、飲みはせずに口元から僅か離し、そっと息を吹きかける。冷ますようにカップを揺すってから、コーヒーをほんの少しだけ口内に含んだ。文月の視界の端で、七瀬が遠ざかって行く。
七瀬は台所の手前の本棚に寄りかかっているキャリーバッグを引っ張った。本棚に背を預けて床へ座り込むと、自分の前に持ってきた鞄の中を漁り始める。
一人で勉強でもするのだろうか、と様子を見守っていた文月だが、ふわりと舞った紫煙に眉を顰めた。正面に向き直ってみたら、御厨が煙草を吸っていた。
「……おい、煙草を吸うなら外へ行け」
「一本だけ許せよ。……あ、灰皿くれ」
「ここは君の家ではないんだがな……!」
椅子の足が大きな擦過音を立てる。席を立った文月が足早に向かったのは、台所の先の、居間の方だ。少しして戻って来た彼は、硝子製の灰皿を御厨の前へ叩きつけた。
「サンキュ」
「御厨さんが煙草吸うのはイメージ通りですけど、灰皿があるってことは、文月先生って煙草吸うんですか?」
鞄から取り出したノートを手にして、七瀬が頭を傾けている。彼女の見つめる先で、文月が首を左右に振った。
「好きな小説家が、ゴールデンバットという煙草を愛用していてな。吸ってみようと思って吸ってみたが、俺には煙草なんてものは無理だった」
「そんで残りを全部俺に押し付けたよな。あとアレ、お前覚えてるか? 同じようなこと言ってアブサン買ってきて、結局飲めなくて、買って一口しか飲んでねぇのを俺に押し付けてきただろ。お子様が無理すんなって」
「二つしか違わないくせに大人ぶるな。大体、酒と煙草が大人の嗜みというのなら、俺はずっと子供で良い」
二人のやりとりを、七瀬は控えめに笑いながら見守る。そうしているうちにも、彼らは軽口を飛ばし合っていた。
「制服着て学校行けそうな顔してるしな」
「そうか、君は囚人服が似合いそうな顔をしていると、つくづく思うぞ」
「お前はどんだけ俺を牢屋にぶち込みてぇんだよ、こんな美丈夫が牢屋にいたら虫にだってモテちまうんだろうな」
「君は……いつから自己陶酔をするようになったんだ?」
「冗談に決まってんだろ。ってか虫の部分にツッコめ。ありえねぇだろ」
御厨の文句を聞いているのかいないのか、文月は「さて」と席を立った。彼の手元にあるコーヒーカップの中身は、空になったようだ。彼はそれを台所の方へ持って行くと、流し台に置く。カップに水を注いでから、そのままそこに放置して、部屋の方へ戻った。
「御厨、そろそろ行くぞ。七瀬は……」
「あ、ここで勉強したり、試しに贋作っぽいものを書いてみたりしてますね。疲れたら帰りますけど」
「そうか、分かった」
「はいっ、行ってらっしゃい! ……です」
友達や家族に言う感覚だったのだろう、七瀬が文月に向けて手を振ったかと思えば、慌ててその手を引っ込めた。膝の上で拳を固め、恥ずかしさで俯いた彼女の耳に、小さく跳ねる吐息が届く。
笑われたことに頬を膨らませて、七瀬が顔を上げたら、口角を少しだけ上げている文月と目が合った。
「行って来る」
微笑む文月に軽く手を振られ、七瀬はつい他所を向いてしまった。しかし失礼だったかと思い直し、慌てて、顔の向きはそのままに大きく頷いて見せる。
「もうちょい待ってくれよ……」
御厨の舌打ちと、文月のアタッシュケースが揺れた音が重なった。いつも通りの言い合いを携えて遠ざかって行く彼らの背を、七瀬は見送った。
(一)
患者の家を訪れた文月と御厨は、患者の母親に居間へ通される。テーブルを前にして椅子に腰掛けた二人に、茶を入れようとする彼女を、文月が急いで引き止めた。
「五十嵐さん、大丈夫です。喉は、渇いていませんから」
「あ、そうでしたか。分かりました」
四十代くらいに見える彼女、五十嵐は、申し訳なさそうに眉尻を下げて、台所から戻ってくる。文月の向かい側へ着座すると、彼女は泣き出しそうに目を震わせて、文月を見上げた。
「あの、陽菜を、助けて下さい……!」
「勿論ですよ。その為に来たのですから」
助けて、という言葉を耳にした瞬間から口を開いていた文月の、間髪を入れずに放たれた心強い声に、五十嵐が胸を撫で下ろした。だが心配性のきらいがあるのか、彼女の視線は落ち着きなく彷徨い、両手の指も落ち着きなく動いている。
「五十嵐さん、聖譚病や綴者については、どの程度ご存知でしょうか?」
「え、えっと……病気に関して、陽菜の様子を見る限り、寝たきりになる、ということくらいしか……」
「ええ。聖譚病は、特別と思える書物に出逢った時に意識を失い、寝たきりの状態となった後、暫くするとその作品を朗読し始める、というような病です。自然に目覚めることや、薬等で目覚めさせることが出来ない為、私のような綴者が、患者の病の原因となった書物を基に贋作を書きます。それを読み聞かせることで、患者の意識をこちらに引き戻します」
「なるほど……」
手元に紙と鉛筆があったなら、覚え書きのような形で書き留めていたと思うくらい、五十嵐は熱心に文月の説明を聞いていた。
「聖譚病になるのは、本を読んでいる際に深く感情移入をして、その物語の登場人物と自分を重ねてしまうからです。重ねて、その物語の中を夢の中で彷徨い続けてしまいます。そんな患者を目覚めさせる為に、綴者は患者を主人公にした、患者自身の物語を綴ります。その為には、患者がどのような経験をして、物語のどういった部分を自分と重ねたのか、知る必要があるんです」
「そう、なんですか……」
「はい。なので、いくつか質問をさせて下さい」
「分かりました。なんでもどうぞ」
目元に笑い皺を作った五十嵐に、文月が「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。居直った彼はすぐに質そうとするも、一呼吸置いてから思案顔のまま訊ねた。
「陽菜さんの聖譚……病の原因となった書物は、高瀬舟です。ですから……このような質問をすることになり、大変申し訳ないのですが……陽菜さんが物心付いてから今に至るまで、周りで亡くなった方はいませんか?」
「え……っと、ウチでは、祖父くらいしか亡くなっていませんよ。多分、小学校や中学校でも亡くなった人はいない、と思います。私が知らないだけかもしれませんが」
「そうですか……。ちなみに、祖父君が亡くなった原因をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……自殺です」