やがて高瀬舟でお別れを3
「……それで、君はこんな早い時間からどうしたんだ? 何かあったか?」
「あ、いえ。ただちょっと、贋作を書くのが楽しみで。でも、もしかしてまだ御厨さんの妹さんの治療って終わっていませんか?」
「昨日のうちに治療した。だから、今日はちゃんと君の勉強を見られるぞ」
嬉しさを感じながら文月と目を合わせた七瀬は、彼も嬉しそうにしていることに疑問を覚えながらも、笑みを零す。彼の目が遠くを見るように細められた。視線の先を追いかけてみたら、七瀬の後方にある本棚に行き着いた。
「試しに短い話からやってみるか。そうだな……」
「よっ」
一紗がいなくなったばかりの廊下から、御厨がひらひらと片手を振りながら歩いてきた。いつもながら、彼は友人宅に来るだけでも、パーティーに出向くかのような洒落たストライプシャツに、グレーのスーツを纏っている。
「七瀬ちゃん今日は早いんだな。この時間にいるってことは、一紗さんに会ったか? すげぇ美人だよな」
「は、はい。綺麗な人でした!」
「御厨……君もまた、早いな。妹はあれからどうだ?」
「ん? ああ、小春なら元気だ。リハビリとかあるから、まだ暫くは入院させなきゃならねぇんだけどな……って、それは今良いんだよ。仕事だぜ」
仕事、という単語を耳にして、七瀬の開いた口の端が下がっていく。
「えぇぇ……」
「……済まない、七瀬。授業は、またの機会にしてくれ」
「はぁーい……」
残念がっているのは、顔を見るだけでよく分かる。そんな彼女に文月は苦笑しか返せない。
「コーヒー、淹れて来ます」と言って席を立った彼女は、自身の手元にあった空のコップを持って、台所の方へ歩いていった。
空いた席に座るかどうか悩みつつも、御厨は立ったまま話し出す。
「患者は中学生の少女だ。国語の授業中に倒れて保健室に運ばれた後、両親に家まで運ばれたそうだぜ。現在は自宅のベッドで寝ている。森鴎外の高瀬舟って作品を朗読し続けているらしい」
「高瀬舟……中学生の少女が何故あの作品に……?」
「どんな話なんだ?」
焦げ茶色の瞳が、遠くを見るように焦点をぼかす。絡まりそうな位置に視線が向かっていても、今の文月の目と向き合ったという感覚は得られない。御厨は、記憶を遡っている彼から、何の気なしに目を逸らした。
「高瀬舟というのは、遠島を申し渡された……つまり流罪とされた罪人を護送する小舟だ。罪人の親類の一人には、同舟することと、そこで罪人との別れの挨拶を済ませることが許されていた。その舟に乗せられる罪人のほとんどは悪人ではなく、一時の気の迷いなどで罪を犯してしまった者達だ。護送役である下級役人は、大抵そういう罪人と親類の会話から悲惨な境遇などを知って、胸を痛めたりしていた。ある時、住所不定で親類のいない喜助という男が、高瀬舟に一人で乗った。護送を任せられた庄兵衞は、喜助が弟を殺した罪人であることを聞いていたが、喜助の様子に違和感を覚える。今まで庄兵衞が護送してきた罪人は皆、気の毒な様子を見せていたが、喜助は遊山舟に乗ったような、楽しそうな顔をしていたという」
「弟を殺して頭おかしくなっちまったのか?」
「いや……喜助はそれまで、居て良い所がなかったようで、島で暮らすということに苦しさを感じなかった。それと、遠島を言い渡された者は鳥目二百文という、今で言う約五千円程度の金を渡されるのだが、それほどの金を懐に入れたこともなかったらしく、喜助はその金にも喜んでいた」
「へぇ……」
御厨は自身の左手首に嵌められた銀の腕時計を弄りながら、五千円では見栄えがする腕時計すら買えないじゃないかと考えていた。手を突いた椅子の背もたれを引いた御厨が、席に着く。
「それから庄兵衞は喜助に、何故人を殺めたのかと問いかける。喜助は自分と弟のことを語り始めた。幼い頃に両親を亡くし、弟と二人で働いたりしながら暮らしてきた喜助だが、弟が病で働けなくなる。弟は兄一人に働かせていることを申し訳なく思っていた。ある時、帰宅した喜助が、剃刀で自殺を図った弟の姿を目にする。弟は、治りそうにない病だから、早く死んで兄に楽をさせたいと思い、それで首を切ったが死ねなかったと言った。そして首に刺さったままの剃刀を抜いてくれと、抜いてもらえたら死ねると思うのだと、喜助に懇願する。苦しい、早く抜いてくれと頼み込む弟に、喜助は、仕方がないと言って剃刀を引き抜いた。その様子を近所の者に目撃され、役場に連れて行かれた後に、喜助は高瀬舟に乗ることになったそうだ」
「……その喜助ってやつの語りで、話は終わりなのか?」
「大体は、そうだな。弟を苦しみから救ってやりたいという一心でしたことが罪となるのか――というような、庄兵衞の心持ちが綴られた後に、水面を進んで行く高瀬舟の描写が入って、それでお終いだ」
「……所謂安楽死の話、だよな? もしそんな経験をしたんなら、女子中学生にしちゃあ、重すぎねぇか」
唇を引き結んで、文月が小さく頷いた。悩むような顔をしている文月の前に、ブラックコーヒーの入ったカップが置かれる。七瀬は「どうぞ」と言いつつ、御厨の前にも同じようにカップを置いた。