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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第四章
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やがて高瀬舟でお別れを1

 早朝とも言える時間の書川町かくがわちょうはとても静かだ。


 御厨みくりや九重ここのえの妹の治療は終わったのだろうか、と思いながら、榊田さかきだ七瀬ななせはいつもよりも二時間ほど早く、洋館じみた建物を訪れていた。


 玄関をくぐってすぐ正面にある階段。そちらの方には向かわず、その隣にある本棚の方を目指して、七瀬は歩く。廊下を挟んで立ち並んでいる本の背表紙をちらちらと見ながら、奥の一室に足を踏み入れてみたが、家主である文月ふづき八尋やひろの姿はそこになかった。彼が普段座っている、出窓の傍に置かれた椅子は空席だ。


 七瀬は、茶に少量緑を加えたような、国防こくぼうしょくのセーラー服のスカートから携帯電話を取り出して、時計を確認する。時刻は午前六時三十分を過ぎたくらいだ。流石にこの時間では文月も寝ているのかもしれない、と考えて、どうするべきか悩み始める。うーん、と小さく唸り声を漏らしてから、七瀬は廊下を戻り、二階に上がった。起きている可能性も無きにしも非ずだ、と思いながら、二階にある扉を開けようとして、ドアノブに触れた手をすぐさま引っ込めた。


「ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べているの?」


 反射的に扉に背を預けた七瀬の耳へ、聞き覚えのない声が聞こえてくる。女性の声が止むと、衣擦れの音に文月の嘆息が混ざった。


「ああ、その辺の店で適当に食べやすそうなものを買って食べている」

「それ、大丈夫でしょうね? 栄養バランスの良いものにしなさいよ? 全く、食と住は大丈夫だって言うから朝だけ来てるのに……そっちも心配になってくるじゃない」

「大丈夫だ。それよりも……一紗かずさ、君は本当に大丈夫なのか?」


 中から聞こえてくる会話を聞きながら、七瀬の心臓は大きく揺れ動いていた。悪いことをしているみたいな気持ちになって、立ち去ろうとも思ったが、足音を立てたら気付かれてしまうのでは、という不安が全身を強張らせる。


 全身が固まったように動かない中でも、七瀬の耳は、文月と女性の会話をしっかりと聞いていた。


「そんなに心配? 大丈夫だって言ってるでしょ」

「……君の彼は相当寛大なようだな」

「ええ。なにより年下のモヤシ君なんかに私を取られるなんて思ってないのよ」

「人を新芽に例えるのはやめてくれないか」

「ならもっと肉付けなさいよ。……ほら、出来たわ」

「ありがとう」

「じゃ、先に下行ってるわね。コーヒー淹れといてあげる」


 背中に近付いてくる足音が、ようやく七瀬の固まっていた体を跳ね上がらせる。慌てて扉から離れたものの、その瞬間に扉が開かれ、中から出てきた女性と対面することとなった。


 黒いスーツ姿の女性が、目を丸くして七瀬を見つめた。彼女が首を傾ければ、高い位置で一つに結い上げられた茶髪が、さらりと揺れる。


「お客さん、かしら?」

「え、えっと……」

「七瀬?」


 女性の後ろから、文月が七瀬の方を覗き込むようにして見ていた。女性は背後の彼をちらりと窺ってから、くすりと笑う。


「あら、八尋。もしかしてあなた、高校生を誑かしたの?」

「何を言っているんだ、君は……。七瀬は俺の患者だったんだ。今は、綴者ていしゃになりたいと言う七瀬に勉強を教えている」

「へぇ……先生みたいなことをしているのね。良かったじゃない。少しは、嬉しいでしょ?」

「まぁ……な」

「じゃ、私、先に彼女と話をしているわね」


 女性の言葉に気が抜けたような顔をしていた文月が、閉められた扉の向こうに残される。後ろ手に扉を閉めた彼女が、真っ直ぐに七瀬を見つめた。


「七瀬ちゃん、って言うのよね。私、八尋の幼馴染なの。柳ケ瀬(やながせ)一紗。よろしくね」

「え、あ、よろしく……お願いします」


 控えめな化粧が施された綺麗な顔で、一紗がにこりと笑いかけてきた。動揺しつつ、七瀬も笑い返したが、それは引き攣ったものにしかならなかった。


 そんな七瀬の耳に、一紗が顔を寄せる。吃驚して両肩を持ち上げた七瀬へ、彼女は悪戯っぽく囁いた。


「安心して。私、恋人がいるってことになっているから。八尋とはそういう関係じゃないわ」

「へっ? いやっ、別に私は、そんな、そういうことは気にしてませんから! ただお邪魔だったんじゃないかなって!」

「だから、ただの幼馴染兼お手伝いさんみたいなものだから、邪魔だなんて思う必要はないわって言っているのよ。彼、片手じゃ袴なんて履けないから、手伝ってあげてるの」

「そ、そう、だったんですか」

「七瀬ちゃん、下に行きましょう。カフェオレを淹れてあげる」


 ひんやりとした、白魚のような指が七瀬の手首に絡み付く。未だ戸惑っている七瀬は、一紗に手を引っ張られた。その力は弱く、簡単に振り払えそうなものだったが、どこか楽しそうにも見える彼女の手を払うなど七瀬には出来ない。


 階段の前まで来ると彼女の手は離れて行き、彼女はヒールを鳴らして階下を目指す。七瀬はその背を追いかけた。

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