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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第三章
32/49

見上げるはよだかの星13

 ――文月の朗読の声が消えた室内で、堪えた泣き声が響いていた。文月の後ろで朗読を聞いていた九美が、口元を押さえて涙を流している。


 鼻をすする音がやけに響いていることに、彼女自身気付いたのだろう。目元を拭いながら、早足で病室を出て行ってしまった。御厨が彼女を引き止めようとしたものの、微かな少女の声に、その足は縫い留められる。


「わ、たし……」


 枕に頭を預けたまま、小春が、瞼を半分ほど開いていた。彼女の視線は、すぐ傍にいた文月よりも、慌てて駆け寄って来た御厨の方へ引き付けられた。御厨と顔を合わせるなり、彼女は目を瞠って、目を逸らしたその瞳を潤ませ始める。


「私……そうだ。私、逃げちゃった。ずっと、現実から逃げたくて……本の中で生きられたらなって、逃げちゃった。逃げちゃったよ……」


 幼子みたく声を上げて泣き出した小春の、痩せた白い手を、御厨が大きな手で包み込んだ。


 未だに、小春が眠ったままでいたかったのか、起きたかったのか分かっていない御厨は、彼女へ掛ける言葉を見つけられないまま、ただ震える小さな手に、熱を注ぎ続けていた。やがて彼女は、声を押し殺し始める。それでも肩を震わせて、涙を零し続けていた。取り乱していた瞳に冷静さが灯されたのを見て取り、文月が彼女へ微笑してみせた。


「君は、逃げたわけではない。自分の輝きを、探しに行ったんだろう? ……君は、よだかのように身を滅ぼすまで一人で頑張らなくて良い」

「…………私」

「君の外見を誰がどう言おうが、君は君だ。モノの見方も価値観も、人によって違う。骨董品を美しいと言う者がいる、けれどその価値など分からぬと言う者もいる。宝石を石と同等に並べる者がいれば、石を宝石のように大切にする者もいる。――君は、何億何千といる人間のうちの、たった数名に決められた価値を信じるな」


 鋭く突き抜けた針のような語調に、小春が唇を震わせた。濡れた頬は強張っている。文月は強い声色で、しかし優しく、話を先へ進める。


「どこかに必ず、君の価値を認めてくれる者がいる。日記帳から紐解いた君の心は、綺麗だった。君は、自分自身に対してしか愚痴を零していなかった。だから、俺は君を綺麗だと思ったんだ。君の心は、その心から目を逸らした心無い言葉に、簡単に壊されて良いものじゃない」


 水の膜を瞳に張って、小春が顔を歪めていった。涙が、止まることを知らないみたいに流れ続ける。蛍光灯の明かりに煌いて零れ落ちるそれは、流星の如く、すぐさま消えてしまう。消えては流れ、流れては消える星の、その軌跡だけは彼女の頬に残り続けていた。


 ベッドのヘッドボードに隣接する形で置かれている棚の上に、文月は原稿用紙を乗せた。それと同時に席を立った彼の右手が、トレンチコートのポケットの中に差し入れられる。そこから白いハンカチを取り出すと、それを小春の方へ差し出した。


 おずおずとそれを受け取った小春を見て、文月の表情が柔らかさを増した。


「御厨小春。君は心を大切にして、君らしく歩き続けると良い。君の持っている君らしさを、決して失くさないように。その君らしさをしかと見てくれる者に、君がいつか巡り会えるよう……俺は願っている」

「あ、りがとう……ございます……」

「御厨、あとは任せた」

「は!? ちょっ、帰るのかよ!?」


 御厨に何も返さず、コートを翻した文月は病室の外へ出て行ってしまった。

 残された兄妹は、どこか気まずい静寂に目を泳がせる。先に話し出したのは、御厨の方だ。


「あー……あいつ、文月っていうんだ。俺の友達……いや、相棒、でさ」


 今し方文月が着席していた椅子に腰掛け、御厨は笑った。今にも皺を作って崩れてしまいそうな、継ぎ接ぎだらけの笑みだった。


「そう、なんだ……」


 小春が御厨と話すことを気まずく思っている理由に、御厨が思い当たらないわけが無い。目を逸らされ続けている御厨は、小春が、いじめについて知られたことを嫌に思っているのだろうと理解している。


 現実から逃げたくて、という風に吐いた言葉すら、きっと彼女はなかったことにしたいと思っている。


 そう推し量れてしまったからこそ、御厨は、そこでもう駄目だった。


 小春が起きてくれた嬉しさや、小春と話せることへの喜びで必死に作っていた笑顔が、痙攣して崩れていく。喉の奥が狭まって、御厨は呼吸する度に苦しさを感じた。焼かれるように熱くなる瞳が、室内をやけに眩しく思わせる。


「お兄ちゃん……?」


 御厨は、俯いた。今の顔を小春に見せたくなくて、下を向いた。だけれどすぐに顔を上げる。目を合わせたか合わせないか、それが分からないくらい、二人の視線が絡み合ったのはあまりに短い時間だけだった。


 御厨が抱きしめた小春の体は、悲しいくらいに細くて、凍えそうなくらいに冷たかった。華奢な背中に回した両腕へ、強く力を込める。


 小春を抱きしめたのはいつぶりだろう。五年になるのだろうか、と考えて、御厨は苦笑する。それよりも、恐らくもっと昔だ。彼女がもっと、小さな頃だ。


 だからこそ、この五年で、小春がどれほど変わってしまったのか、御厨には分からなかった。


 動揺している小春は、けれども大人しく、御厨の抱擁を受け入れている。御厨は、より強く彼女を掻き抱いて、零れる涙の音に言の葉を重ねた。


「ごめん。ごめんな、小春。ずっと、辛い思いをしてたなんて、なにも知らなかったんだ。お前を助けたくて、お前の日記を読んじまって、助けていいのか分からなくて、悩んだ。悩んで……結局俺は、何年もお前を起こしてやれなかった。けど、今、文月に頼んで起こしてもらえて、良かったって、心から思った。お前が起きてくれて……良かった、って」

「お兄ちゃん……」

「お前がいないのは、すげぇ、寂しかった」


 ゆっくりと、御厨の体が離れて行く。既に泣き腫らしている小春の眼を覗き込んで、御厨は苦々しく笑んだ。潤んだ虹彩に映っている自分の顔なんて、当然御厨には見えなかった。しかし想像は付いたのだ。


 小春が真っ直ぐに見てくれているのは、情けなく歪んでいる、自分の顔だ、と。


 喉がしゃくり上げるみたいに震えて、乱れた呼吸音を唇から吐き出す。御厨はその涙声の余韻から意識を背けるべく、開口した。洪水の如く溢れ出る言葉を、彼は止めようと思わなかった。


「小春。俺は、お前が大好きだ。お前は大切な妹なんだよ。母さんだって、毎日お前の見舞いに行ってた。父さんだってお前を心配して、出張先から何回も電話かけてきてた。……なぁ、お前が学校でひどいことされてたとしても、お前は、それでも愛されているんだ。沢山、沢山愛されているんだよ。だから信じてくれ。俺達を、信じてくれよ。これからは嫌なことがあったら、なんだって話してくれ。一人で抱え込んで、苦しむなよ……っ。家族、なんだ。小春、俺達ちゃんと……家族、なんだよ……!」

「…………うん」


 弱々しい小春の手が、御厨の袖を引く。歪みに歪んだ顔のまま彼女に体を寄せれば、力なく抱きしめられた。御厨も、先程のように、強く抱きしめ返す。


 小春の体温は、先刻抱きしめた時よりも、少しだけ、ほんの少しだけ、暖かな熱が灯っているように感じられた。


 息がかかるくらいの距離で見た小春の涙はまさに星の欠片。伝え合う体温はきっと、互いの星の暖かさなのだろう。


 冷静になって泣き止まなければ、と急く頭の中で、御厨はそんなことを考えていた。


 黙っていてごめんなさい。そんな謝罪を繰り返し始めた小春の歔欷を耳にしながら、御厨は微笑む。


 御厨にも、小春の心はとても綺麗に見えていた。

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