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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第一章
3/49

辿るは夢十夜3

 少しして、足音が近付いてくる。それでも集中している文月は誰かが入室しても気に留めない。正座をした膝の上に乗せていた右手を顔の前まで持ち上げ、小さく空気を吸い込んだ。淡く漂う線香の香りを喉の奥に通してから、深く頭を下げる。


 長い間の後、真剣な面を上げた文月の後頭部に、鈍い痛みが走った。


「なあ、もう話しかけても良いか?」

「っこの馬鹿力め……先に声をかけろ!」

「何回呼んだと思ってんだ!?」


 隣に胡坐をかいた御厨へ、恨めしげな視線を送るものの、彼は既に文月など見てはいなかった。優しい輪郭を象る彼の瞳は、七瀬の唇を眺め入る。


「……なんだ、彼女に惚れたのか?」

「そんなわけねぇだろ。で、この子は夢十夜って作品の、どんな夢の中にいるんだ?」

「そういえば、患者の傍に聖譚が置かれていないな」

「ああ、榊田さんが、本の呪いのせいで娘が倒れたのかもーって不気味に思って、片付けたんだとよ。あの人、聖譚病についてあんまり詳しくなかったみてぇだ。それで色んな情報を持ってる俺に相談してくれたらしい」


 ほう、と息を吐き出した文月に、御厨の焦茶の虹彩が向けられる。それが今し方の彼の質問に対する答えを催促しているのだと察して、文月は悩むように顎へ手を添えた。


「簡潔に纏めるのは苦手なんだが」

「だから良い本を書けねぇんじゃ……」

「五月蝿い。彼女は夢十夜の第一夜を辿っているらしい。第一夜は……しとねに臥している女が、もう死にます、死んだら埋めて下さい、と、語り手である『私』に言うんだ。大きな真珠貝で穴を掘り、天から落ちて来る星の破片かけ墓標はかじるしに置け、と、埋め方まで指定する。そして、また逢いに来るから、墓の傍で待っていてくれ、と『私』に頼む」

「待て、って、どれくらい」


 百年だ、と文月が口に出す前に、七瀬が「百年待っていて下さい」と、少しだけ掠れた声で一文を読み上げた。


 長い年月に、御厨が口を阿呆みたく開けている。文月はそれを気にせず続けた。


「それから『私』は言われた通り、亡くなった女を庭に埋めた。昇っては落ちて行く陽を幾度も数え、そのうち、女に騙されたのではないかと思い始める。そんな時だ、墓石の下から百合の花が生えてきた。白い花弁に口付け、それから遠い空に輝く暁の星を見た『私』は、ようやく百年が経ったことに気付いた。……これが、夢十夜の第一夜だ。気になったら読んでみると良い。花弁の温度や風の音、瞳や雫の艶やかさまで伝わってくるような、美しい文章だ」

「あー……俺は活字読むの苦手だから、遠慮しとく」

「なら彼女の朗読にひたすら耳を傾けていろ。俺はこれから大まかな流れを考えて書き留める。だから話しかけるな」


 アタッシュケースから引き抜いた原稿を畳の上に置き、インクとガラスペンを取り出した文月は、細く綺麗な文字を紙に連ねて行く。


 けれども、彼の筆は十秒も経たないうちに止まった。御厨に「どうした?」と尋ねられると、呆然としたような顔のまま立ち上がった。


「七瀬さんについて聞かなければ何も書けないじゃないか」

「お前ホント……患者の親族に気を遣い過ぎなんだよ」

「御厨、榊田さんは今何をしていた?」

「リビングで湯飲みを洗ってたぜ。難しい顔をしてたから、文月に話すことを考えてたんじゃねぇかな」


 それを聞いた文月は廊下へ爪先を向ける。畳からフローリングへ進んで、玄関の方へ歩いた。最初に案内された和室の向かい側は、洋風の部屋になっている。そこに足を踏み入れて、食卓の傍に立つと、台所で洗い物をしている榊田と向かい合う形になる。


 あ、と小さく漏らした榊田に、文月は人好きのする笑みを投げかけた。


「こちらに掛けて榊田さんを待っていても良いでしょうか?」

「え、ええ……済みません。すぐ終わりますから」


 首肯だけを返して、文月は椅子に座り、食器と水の音をぼんやり聞きながら、榊田を待った。


 蛇口が高い音を鳴らして、水音の余韻を沈黙に溶かす。榊田はタオルで手を拭いてから、文月の前に腰掛けた。


「七瀬の話、ですよね。あの子は、明るいけれどどこか控えめな、良い子なんです。学校の授業も頑張っているみたいで、三者面談の時などによく褒められていました。でも、二ヶ月くらい前から、学校に行かなくなってしまって」

「何故です?」

七海ななみが……七瀬の姉が、病で亡くなったんです」


 仏壇に置かれた写真が、文月の頭を過る。あれが榊田七海なのだろう。文月は遠慮がちに、控えめに問うた。


「七瀬さんは、七海さんの最期を見届けたんですか?」

「……ええ」

「申し訳ありません、こんな質問をしてしまって。ですが、もう一つ尋ねても構わないでしょうか」

「いくつでも良いですよ。あの子の為ですから」

「ありがとうございます。七海さんの最期の言葉がどのようなものであったか、七瀬さんは口にしていましたか?」


 とても短い嘆息が、文月の耳朶を掠めた。榊田の瞳の表面に水の膜が張られている。それに気が付いた文月は、何か労る言葉をかけようとして、しかし一つとして気の利いた台詞は浮かばず、閉口するしかなかった。


 込み上げる感情を押さえつけるべく、榊田が生んでいる長い静寂。震えた吐息が、僅かに高くなった声音を伴って吐き出された。


「少し眠ったら、すぐに良くなるから。だからもう少しだけ待っていて――そう、言って、微笑んだまま目を閉じたそうです」

「……そう、ですか」

「七瀬、もう高校生なのに、葬儀が終わった後も理解出来ていない子供みたいに、何度も言っていました。お姉ちゃん、少しだけって言ったのに。少しだけってどれくらい待てば良いの? いつになったらお姉ちゃんに会えるの、って」


 泣き出しそうなのを堪えるように、榊田は唇を噛んだ。何も言わず、先を促すこともしない文月の耳に、掛け時計の秒針の音が突き刺さる。


 七瀬が七海の死に受けた衝撃と悲しみは、文月が容易に想像出来ないくらいの痛みを誘ったのだろう。大切な人と二度と会えなくなる辛さには、誰しも胸を穿たれる。


 榊田や七瀬の痛みを理解した気になって、次第に歪んでいく表情を、文月はそっと落とした。喜怒哀楽のどれでもない仮面を貼り付け、なんとも思っていない風に、榊田の言葉を待ち受ける。


「あの子の心が、酷く傷付いているのは分かっていました。けれどあの子にはあの子の人生がある。だから、落ち着くまでは学校に行かなくても良いから、本を読みなさいって言ったんです。それで、七海の部屋にある本を、七瀬は少しずつ読み始めました。良い傾向だと思ったんですけど、あんな病気にかかってしまうなんて……」


 ふ、と、優しく空気が揺れる。榊田は俯かせていた顔を上げて文月を正視した。柔らかな笑みを湛えている彼を見て、感情に流され乱れていた心が落ち着いて行く。


 文月は弧を描いた唇を薄らと開いた。


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