見上げるはよだかの星10
「楽しい、です。……私、聖譚病に罹るまではずっと、なんていうか、気分が下がったままで。暗い顔ばっかりしてたと思うんですけど。確かに、最近はよく笑ってる気がします」
「そうだな、君はよく笑う。これは……自惚れ、かもしれないが……もし俺が、君を笑わせられているのなら、嬉しく思うんだ」
照れ臭そうで、言い難そうな声の調子に、七瀬は顔を上げた。今の発言は口を滑らせてしまったことによるものだったのか、文月は口元を押さえていた。それを七瀬に見られると、彼は慌てて頬杖を突き、窓の外を窺う。
紺と藍が織り成す諧調が、夜を告げていた。窓硝子は太陽が在る時よりも色濃く室内を映している。しかし、文月は映っているものに目を向けてはいないようだ。町の、どこか遠くを眺めているその目元が、歪んでいく。七瀬にはそう見えた。彼の唇が僅かに開くも、声はすぐに発せられない。
数秒が経過し、ようやく彼が、感情の乗せられていない吐息を漏らし始めた。
「治療した患者のその後を見届けることは、これまでなかった。病からは救えた、けれどもその心を救うことは出来ているのか、それが、ふと気になったこともある。俺に出来るのは、病を治すことだけ。しかし患者の痛みの一部を知って、病を治すだけで、それで俺は良いのだろうかと、たまに悩むんだ。俺は、贋作で患者の心を少しでも救えないだろうかと、思うんだ」
「……そう、なんですか」
「だから、君を見ていると安心する」
端正な横顔の、口端がほんの少しだけ引き上げられている。その笑みを携えながら、文月が七瀬の方を向き直った。
「俺は、誰かをちゃんと救えているんだな、と……実感出来るんだ」
「文月先生……」
「君は、笑っていてくれ。だが嫌なことがあった時は、抱え込まない方が良い。七瀬、人は誰かに救われて、誰かを救って生きているんだ。だから、頼れる人間を頼りながら、頼られながら、良い日々を過ごして欲しい」
彼の柔らかな語調は、淡い力強さも引き連れている。七瀬は、自分の為を思ってくれている言葉をはっきりと聞いたのを、久しぶりのように感じた。それゆえか、左胸の内側で心臓が揺れる。もし七瀬が何か悩みを抱えていたなら、今この場で彼に吐露してしまっていただろう。しかしながら、今の七瀬は何事にもあまり頭を悩ませてはいなかった。
唇を弓なりにして、軽く頭を上下させる七瀬。文月は同じように小さく頷き返し、続けた。
「勿論、俺のことも、好きな時に頼ってくれて構わない」
「はい。ありがとう、ございます」
なんて、頼りたくなる声遣いなのだろう、と七瀬は思った。助けを求めればすぐに力を貸してくれそうな彼を、ヒーローのように感じた。
七瀬にとっての家族が、決して頼りないわけではない。母親は七瀬の心の深い所までは踏み入らないが、それでも七瀬を支えようとしている良い大人ではあるのだろう。けれども、見守るだけに近い優しさに、七瀬は手を伸ばして良いのか判断しかね続けていた。七海が亡くなった後のやるせない感情を口に出して、母に聞かせても意味が無いと理解してからは、だんだんと喉の奥で押さえ付けるようになっていた。
控えめな優しさには、頼っても良いのだろうかという葛藤に邪魔されて縋りつけない。けれど目の前に差し出された優しい手の平を掴むのに、葛藤は生じない。七瀬はそこまで考えて、だから自分は文月八尋のようになりたいのだと、再確認した気持ちになった。
救いを差し伸べてくれた彼のようになって、救いを待ち続けていたかつての自分のような人を救いたいと、七瀬は心から思った。
七瀬は、衰弱の後に亡くなってしまった姉へ、涙を見せることしか出来なかった自分を、変えたかったのだ。
よし、と呟いて手の平を握り締めた七瀬が、すっと離席した。
「そろそろ、帰りますね。明日また来ますけど、忙しかったら、勉強を我慢して帰りますから、遠慮なく言ってください」
「ああ。外はまだ暗いから、気を付けるんだぞ」
「分かってますよ、子供じゃあるまいし」
足元に置かれていた学生鞄を手に取ると、七瀬は「それじゃ」と笑って廊下へ歩を進めた。靴音は三回程度鳴り響いてぴたりと止まる。肩くらいまでの長さの横髪を揺らして振り向いた彼女が、文月ににっこりと笑う。
「私、文月先生のおかげで、勉強とか色々、頑張れそうです。というか、頑張るぞーって気分になってます! だから文月先生も、頑張ってくださいっ」
今までよりも一層大きな声量で、七瀬は言い切った。深く頭を下げると、彼女はそれからすぐに部屋を出て行ってしまった。廊下の先へ消えた後姿から視線を外して、文月が小さく笑う。頑張って、という言葉の、包み込むような温かさに、体温がほんのりと上がった。
七瀬の励ましが胸の深くまで染み出したものだから、文月は破顔せずにはいられなかった。
「……さて」
ほぼ息に近い声を、玄関から響いた鈴の音の余韻に重ねたら、文月は深く、長く頭を下げた。暫くして上体を起こした彼は、ガラスペンに人差し指の腹を滑らせる。そっと手に取ったそれの穂先をインク瓶に差し向けて、彼は脳の内側に広がる物語を、早速紙の上へ移し始めた。