見上げるはよだかの星9
台所の方で、硝子が擦れた音色が聞こえてくる。七瀬は、コーヒーを淹れにいったのであろう彼に届くよう、声を投げかけた。
「私の分は用意しなくて良いですからね! 今、喉渇いてませんから!」
掛け時計の秒針以外が響くことの無い室内で、張り上げられた七瀬の声はしかと文月に届いただろう。それでも不安にはなるらしく、彼女は椅子の背もたれに臍を向け、セーラー服姿だというのに両足を大きく開いて、跨るような姿勢で台所の方向をじっと正視していた。
少しして本棚の陰から出てきた文月の右手には、普段のコーヒーカップではなく白いマグカップがあった。椅子の方へ向かおうとした文月は、七瀬の姿を目にして足を止めると、遠くから見ても分かりそうなくらい顔を歪める。
「七瀬、行儀が悪いぞ。君はまともに座ることすら出来ないのか」
「座れますよ! いつもちゃんと座ってるでしょ!」
「さあ、あまり記憶に無いな」
「鳥頭なんですか?」
座り直した七瀬の目の前に、文月が持ってきていたマグカップがとんと置かれた。甘い香りが湯気に乗って舞い上がり、不機嫌そうだった彼女の口端を緩ませる。彼女が両手で包み込んだカップの中身は、ホットミルクのようだった。
「あったかい……って、これ文月先生が飲むんじゃないんですか? 私の分は要らないって言いましたし」
「俺はこれから贋作を書くから、いいんだ。喉が渇いていないにしても、少しだけ肌寒いだろう? それを飲んで温まると良い」
「んー、じゃあ、お言葉に甘えて……いただきます」
数度息を吹きかけて、七瀬は啜るようにホットミルクを口に含む。ごくりと喉を鳴らすと、幸せそうに笑顔を咲かせた。
「美味しいですっ」
「そうか、良かった」
文月が、座っている椅子の後ろ――という定位置に置かれているアタッシュケースを引っ張り、原稿用紙をテーブルの上に置いた。ガラスペンを取り出して、文字を書く準備を整えたら、彼は頬杖を付き、出窓から見える町並みを眺めた。遠くに見える茜の空は、紺色が少しずつ混ざって行く。これから沈み行く太陽が、昼間よりも明るく見える光を放っていた。
文月の視線の先を辿って、それから自分の両手の中にあるカップを見つめた七瀬は、眉を寄せた。彼は七瀬が帰るのを見送ってから執筆を始めるのだろう。そう考えたら早く飲み終えなければならないような気がして、熱を帯びたカップの縁に唇をすぐさま押し当てた。数回咽喉を上下させて、カップをテーブルに戻したら、中身は半分よりも少なくなっていた。
残りもすぐに飲み干してしまおうか、と再びそれを持ち上げようとした途端に、声がかけられる。
「七瀬、綴者の試験のことは、考えてみたか?」
「あ……家に帰った時、両親と話してみました。そしたら、いいんじゃない? って。だから、やってみたいなぁ、とは思ってます」
「なら、良かった。今回の御厨の件が片付いたら、早速贋作を書く練習をしよう。今日中には片付けられるとは思うが、明日までかかってしまったら、次の授業は明後日になる。済まないが、待っていてくれ」
「はい、楽しみに待ってます! でも、色んな作品を読んでみて贋作を書くのって難しそうだなと思いました。どの作品もすごく文章が綺麗で、難しい言葉も多くて……私が書いたら小学生みたいな文章になっちゃいそうです」
先を思い遣っているようで、七瀬が渋面を象る。その様子を瞻視し、文月は苦笑していた。
「あまり難しく考えすぎなくていい。綴者が真作から借りるのは物語の流れだけだからな。文章は君らしく書いていいんだ。君の思うまま、患者に届くように気持ちを込めて。小説というものは、きっと君が思っている以上に自由なものだよ」
「そう、ですか? でもやっぱり、上手いとか下手とかあるじゃないですか」
「どう評価するかは読み手次第、人によって評価も変わってくる。七瀬、数学と違って芸術には正解がない。人は自分の思い描く正解で美しさを計っている。だから君は、君の思う美しさを綴ればいい。君らしく患者に寄り添ってみてくれ」
「そっ、か……文月先生の話を聞いていたら贋作書いてみたくなってきました! この前文月先生が言っていた、綴者が書いた日記本? も読んでみたら、書けそうな気がしてきます!」
そう言われて、文月は探しておくと言った書物のことを今思い出したらしく、暫し口を開いたまま固まっていた。閉じた唇で柔和な繊月を象ってから、彼は小さく頷いた。
「その本も、時間が出来たら探しに行くつもりだ。あれがあるとすれば、書置所だな……となると、隣県か……」
「書置所? って、なんですか?」
「治療に関する報告書や、患者の聖譚、患者の為に書いた贋作の原稿などが置かれている、図書館のような施設だ。贋作の原稿は、持っておきたいと言う患者が多いようで、複製されたものばかりらしい。ちなみに書置所は、基本的にだが綴者しか立ち入ることが出来ない」
「へぇ……」
ホットミルクをほんの少しだけ飲んで、七瀬はマグカップを弄る。顔を上げてみれば、文月が顎に手を添えて考え事をしていた。いつ書置所に行くか悩んでいるのかもしれない、と予想しながら、七瀬は彼から視線を外して、出窓の反対側にある壁の掛け時計を確認した。もうじき六時になるようだ。
帰ったほうが良い時間であると感じたが、七瀬はもう少しだけ文月と話すことにした。
「文月先生」
「……なんだ?」
ぼうっとしていた彼が、目を大きくしてから、細めた瞼の下で黒目を動かした。真っ直ぐに七瀬を映した彼の虹彩を見返して、七瀬は愉しそうに瞳を湾曲させる。
「よだかの星の贋作は、どんな感じに書くんですか?」
「星が、願いを叶えるものであることに重きを置いて書こう、と思っている」
「でも、原作の方のよだかの星だと、星は願いを叶えてくれませんでしたよね?」
七瀬は、文月から聞いた大筋を思い出しながら問いかけていた。ああ、と呟いた文月が、軽く首肯した。
「夜空に浮かぶ星は、導き手を表すものだ。だから、直接的に願いを叶えてくれるわけではない。タロットだと、星は内的な輝きや、身体の内側から溢れる可能性、思考の発露を示している。とすれば、星は心そのものとも取れるはずだ。よだかが星になれたのは、その心がどこまでも真っ直ぐに輝き続けていたからではないだろうか。遠くへ行ってしまいたいという思いで高く飛び続けたよだかは、自身の持っている星で、つまりは自身の心で願いを叶えたんだ。星のように輝き続けていたよだかの心から輝きが溢れ、その輝きはよだかを呑み込んで、その身を星に変えた……そう考えてみたら、どうだ? 星は、願いを叶えるものだろう?」
「なる、ほど……。じゃあよだかの心は、ずっと輝き続けているんですね。なんか、やっぱりどう解釈しても素敵」
「君の星も、よだか程ではないが輝いているんじゃないか?」
冗談ではないようで、文月は当たり前のことをさらっと述べたみたいに、真剣な顔をしていた。けれども気抜けている七瀬を見て、だんだんと彼の頭が傾いていく。彼と同じように、七瀬も首を傾けた。
「なんで、ですか?」
「君はよく、笑っているだろう? 七瀬、ここ最近は、楽しいか?」
文月の綺麗な微笑に、七瀬は思わず息を呑む。そちらに気を取られていたせいで、彼の質問を頭の中で思い返さねばならない。問われたことを反復して、近頃の自分のことを思い返し、頷く勢いのまま頭を下げた。