見上げるはよだかの星8
日記帳を手にして、部屋を出て行こうとした文月に、御厨ははっとして付け加える。
「贋作を書き終えたら、連絡をくれ」
「電話を滅多に使わないから、使い方を忘れているかもしれない」
「それはジョークか? それとも本気で言ってんのか? まあ、電話が嫌なら、店のカウンターまで来て、俺を呼んでくれたって良いからな。好きな方にしろ」
「分かった。その時の気分で決めることにしよう。一応言っておくが、君の電話番号はちゃんと記憶しているからな」
スーツの胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこに自分の携帯電話の番号を書き記していた御厨の手を、文月が口頭で止めた。ボールペンとメモ帳をポケットに仕舞い直して顔を上げてみれば、そこにはもう文月はいなかった。
階段を下る足音が微かに聞こえてくる。彼の贋作を聴く時間まで、少し睡眠でも取ろうかといった様子で、御厨はベッドに寝転んだ。
文月はきっと、書き上げた贋作で簡単に小春を目覚めさせてしまうのだろう。そう考えた御厨の内側で、未だに燻らせていた劣等感が小さく膨らんだ。噛み合わせた歯が嫌な音を鳴らす。
自分の内面から目を逸らすように、御厨は瞼を閉じた。
(四)
夕陽に目を細めながら、文月は自宅の戸を開けて中に上がり、廊下を進んで行く。コートのポケットに仕舞っていた日記帳を取り出し、廊下の先にある部屋へ行くと、普段文月が座っている椅子の向かい側に、七瀬が着座していた。
天真爛漫な彼女が、珍しく冷静な顔つきで一冊の小説と向かい合っている。それがどこか微笑ましく、文月の頬を緩めさせる。
机上に日記帳を置いてから、椅子を引いて腰を下ろした文月は、読書に没頭している彼女へ問いかけた。
「七瀬、何を読んでいるんだ?」
「……あっ、文月先生お帰りなさい! お邪魔してます! えっと……」
声をかけなければ気付かないくらい、集中して読んでいたようだ。文月を映した瞳がやけに水っぽく、泣き出しそうに見え、文月は僅か、目を張ってしまった。
七瀬はすぐに視線を下げて、左手側に置いていた一冊の本を持ち上げると、その表紙を確認する。
「最初に銀河鉄道の夜を読んでいたんですけど、読み終わっちゃったので、今は葉桜と魔笛を読んでました。……なんかこれ、すごく、胸にぐっと来るようなお話ですね。妹の、『あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ』って台詞で、泣きそうになっちゃいました」
照れ臭そうに頬を掻きながら、唇で三日月を象った七瀬に、文月は小さく息を吐き出した。呆れられただろうか、と顔色を窺うような七瀬の目線を受けたものの、文月が口にしたのは心配しているとも取れる言葉だった。
「……また聖譚病に罹る、なんてことがないよう、気を付けながら読んでくれ」
「聖譚病って、一回罹った人でももう一回罹ったりするんですか?」
「滅多に無いな。そもそも珍しい病だ。その病に二度も罹るなんて、宝くじの一等を二回連続で引き当てるようなものだろう」
「今までに二回罹った人っています?」
文月が眉を寄せて、テーブルの上を見つめる。しかし、その空間を見ているわけではないのだろう。彼は記憶を漁っていた。眺める先は変えることなく、思い起こしたことをぽつりと零した。
「いた、と思う。……君は、一つ一つの物語、一文一文の情景、一言一言の感情に入り込みすぎるところがありそうだ。だから、これから様々な作品を読んでいくことになるだろうが、あまり感情移入しすぎないように注意してくれ。君がまた聖譚病に罹る確率は、低いにしても零ではないんだ」
「は、はい。でも、文月先生がいるなら、好きなように本を読んで、好きなように没頭しても大丈夫じゃないですか?」
「どうしてそうなる……」
「だって、何度でも助けてくれそうじゃないですか」
七瀬が笑顔で文月を見てみれば、彼は今にも叱責を飛ばしそうなくらい唇を歪めていた。笑って誤魔化しながら、七瀬は慌てて両手を振る。
「半分くらい冗談ですよ、気を付けます」
「半分は本気だったのか」
「まあ……いつ現実から逃げたくなるかなんて分かりませんし。そうやって逃げちゃっても、文月先生の素敵な贋作で目を覚ませるなら嬉しいじゃないですか。文月先生の朗読って、なんか、すっごく素敵なんですもん。前へ歩いて行きたいって思えるような……もう立ち止まってなくていいんだって、そう思えるような感じで」
言いながら、何かを思いついたように、七瀬が両手を叩き合わせた。双眸を輝かせて、テーブルに身を乗り出した彼女の勢いに、文月は無意識下で上体を逸らす。背もたれに寄りかかった文月へ、力説するかのような彼女の声が高く響いた。
「そう考えたら、この前先生が言ってた待雪草の花言葉の『希望』って、すっごく先生の贋作に似合ってますよね! 患者に希望を与えられるって、ホントすごい。やっぱり、文月先生みたいになりたいです!」
文月が目を皿のようにしたのは、戸惑ったからだろうと推察した。けれども彼を見れば見るほど七瀬は、その推察に自信を無くして行く。照れも呆れもしない彼の言葉は、いくら待っても紡がれないように感じた。七瀬は不安になって、彼の瞳孔の奥まで見入るよう、顔を近付けた。
まるでどこかへ行っていた意識を取り戻したみたいに、文月がようやく焦点を七瀬に合わせる。視線が真っ向からぶつかり合って、動揺したのは七瀬の方だ。彼の虹彩が、水面の月のように淡い色をして、揺れていた。
「先生?」
「……七瀬。俺は、誰かに希望を見せられていると思うか?」
力の欠けた声は微かに震えながらも、空気の中に霞んでいく。それがどこか細雪に似ていて、彼が溶け消えてしまいそうな響きに、七瀬は心ともなく声を張り上げた。
「……はいっ! そう言ってるじゃないですか! 私は文月先生に希望を――」
急に立ち上がった文月の右手に頭を押され、七瀬は内心吃驚しつつも、静かに俯いた。ほんの少し暖かな手の平が、足音と共にそっと離れて行く。
「ありがとう、七瀬」