見上げるはよだかの星7
「……話を逸らさないで。私は今、小説の贋作を、治療だと言って正当化している件について話しているのよ」
文月は、コップに一切触れず、ずっと膝の上に乗せていた手を持ち上げた。顎に手を添えて、小さく息を吐き出す。
「薬剤師は、新しい薬を製薬する時に、何も参考にせず作らないと思いますが」
「別のものに例えるのはやめてちょうだい」
「……綴者が書く贋作は、確かに偽物かもしれません。素晴らしい作品を基にしているのだから目を惹かれるのかもしれません。ですが、我々の贋作に胸を打たれるのは、恐らく患者だけです。患者の為に書かれた贋作、その魅力を全て理解し得るのは、患者自身だけです。どうしてか分かりますか?」
九美が向けられる眼光はどこまでも直線的で、見間違えようがないくらいの真剣さを纏っているのに、彼は紳士的な笑みを絶やさない。しかし、声色にだんだんと、人間らしさが入り混じってくる。彼の凛然とした声は、熱情を芯としていた。
「私達は面白がって贋作を書いているわけではありません。悪意を持って真似事をしているわけでもありません。患者に伝えたいことがあるからです。『貴方の人生は確かにこの物語と似ている。けれど貴方の人生は、こういったものであり、その物語だけでは表しきれない。より貴方の人生に似た物語を作ったので聴いてください。そして理解してください。本当の貴方の物語は目を開かなければ見えない。貴方の人生のどこかにある希望は、真作の中にも贋作の中にもない。現実にしかない』――それを、贋作を使って、ただ伝えたいだけなんですよ。何かに胸を打たれている人間は、その時、その何かに関連するモノにしか大きな関心を向けません。だから綴者は、耳を向けて貰える様にその真作を彷彿とさせる語りを始めるんです。そうして贋作にしかと意識を傾けてもらう。それで、患者自身の人生を見つめ直して頂きたいんですよ」
無言のまま九美は、組んだ手をテーブルの上に置いて、それを見つめていた。彼女の薄い唇が真横に引き結ばれているのをちらと見て、文月がゆっくりと話を続ける。
「貴方は先程、別のものに例えるのはやめてくれと言いました。けれど私の話に最後まで耳を傾けた。それは、貴方の興味が向いているものを彷彿させる内容の話であったからでしょう」
「……それで?」
「……私達綴者が贋作を書くのは、単純に言えば患者の気を引くためです。夢の中に入り込んでいる意識を、引っ張り出すためです。そこに悪意は一切ありません。素晴らしい作品を貶したいだなんて、思っていません。綴者の書く贋作は、他人から見ればただの贋作です。ですが患者から見れば、未来への道を指し示す唯一の物語。私達は患者に、現実をしかと生きて欲しいと願っているだけです。私達の書く贋作が、ただの贋作でなく、患者にとっての道標になればいい。そういった類の思いだけで、私達は贋作を書き、患者に読み聞かせているんです」
椅子が擦れて床が鳴く。音につられて面を上げた九美は、瞼を大きく開いた。
席を立った文月が、深く頭を下げていた。九美の目の前にテーブルが無かったなら、彼は膝を突いて土下座をしたのではと思うくらい、深い礼だった。
「御厨さん。どうか小春さんの人生を、彼女の人生の中にある希望を、私に書かせて下さいませんか」
顔を上げないまま、はっきりと伝えられた頼みには、切実で誠実な響きが伴われている。今の文月の胸には、小春を助けたいという思いしかない。それを感取したからこそ、九美はその美貌に困惑の色を塗っていた。
承知も不承知も口にされない。彼女の声が聞こえて来ない中で、文月は自身の拍動音の五月蝿さに顔を顰めた。緘黙によって生じている耳鳴りのような無音さえも、耳を刺してくる。
一向に開口する様子を見せない九美へ、頭を上げた文月が矢庭に鋭く言い放った。
「目を覚ました小春さんに対して貴方が失望する必要は一切ありません。彼女は彼女の人生に目を向けて瞼を開く。自分の意思で現実を見据えた者に、誰かが失望を向けるのは間違っていると思いませんか」
下唇で上唇を押し上げた九美が、不満をありありと顔に出す。かち合う視線は双方共に逸らさない。譲る気が全く窺えない文月の瞳に、九美はやがて居心地が悪そうに俯き、茶色い頭を掻いた。
「……本当に、あの子を目覚めさせられる自信があるのなら、勝手にしなさい。けれど、あなたの贋作の朗読を、私にも聞かせて」
「構いませんよ。私の話を聞いて下さり、ありがとうございました。それでは、朗読する際にお呼び致します」
綺麗な一礼を見せて、文月はトレンチコートを翻した。リビングから廊下に出て、階段のある左手側に進めば、そこに御厨が立っている。文月と九美の話を聞いていたのであろう彼の前を通り過ぎて、文月は二階へ上がる。御厨の部屋に戻ってくると、すぐに御厨も室内へ顔を覗かせた。
この部屋を出る前と同じように、御厨は机の前の椅子に座り込む。文月は立った状態で、今更のように冷や汗を浮かばせ始めた。
「なあ御厨。俺は何か、言ってはいけない言葉や、不快に思われるような発言をしていなかったか?」
「あー……まぁ、大丈夫じゃねぇの? 母さん、それほど怒鳴ったりしてなかったしな。意見が食い違ってるところから話が始まったんだし、不快に思われたりすんのは仕方ねぇだろ」
「そう、だな……」
「あの人に『勝手にしろ』って言わせたんだ。お前の、綴者に対する熱意がちゃんと伝わったんだと思うぜ。良かったな」
御厨にそう言われて、文月がほっとしたように双肩を落とす。項垂れているようにも見えるほど力を抜いたかと思えば、文月はすぐさま背筋を伸ばした。
「そうだ、早速贋作を書きに、家に戻ろうと思うんだが、君の妹の日記を借りても良いだろうか?」
「あ、ああ。勿論」
「それと、君は贋作を書いてみた、と言っていたが、どのようなものを書いたか、差し支えなければ教えて欲しい」
机の上に置かれたままだった日記を文月に渡しながら、御厨は眉を顰めていた。空いた手を椅子の背もたれに乗せて、目を泳がせる。閉じた口から唸り声を溢れさせると、御厨は意を決したように正面を見た。
「書いた贋作は捨てちまったから、手元にはねぇし、内容もうろ覚えだ。俺は文才とか発想力とかそういうのは持ってねえ。だから単純に、よだかの名前を小春にして、登場人物を人間にして、舞台を学校にした」
「結末はどうしたか、覚えているか?」
「確か……小春にひたすら道を走らせて、空にある星に近付かせようとした。高い山の頂まで駆け上った小春が、星に近付こうとして崖から跳ぶ。そこで小春は、星になった。そんな感じの結末だ」
「……そうか。ありがとう。参考にさせて頂く」