見上げるはよだかの星4
「よだかという鳥は、他の鳥達に醜いと思われていて、悪口を言われたり軽蔑されたりしていた。空を翔ける姿やその鳴き声が鷹に似ていたためによだかという名が付いたそうだが、鷹も勿論、醜いよだかを認めなかった。顔を合わせれば、名を改めろとよだかに言い募るほどだ。市蔵という名前に改め、その名が書かれた札を首から下げて、改名したことを皆に言って回らなければ掴み殺す、と鷹は言う」
「……それで、よだかは改名しちゃうんですか?」
「いや、よだかは改名せず、遠くへ行くことを選んだ。大きく口を開けて空を飛び、口に入り込んだ羽虫や甲虫を食べているうちに、よだかは胸を痛めて泣いた。沢山の虫が毎晩自分に殺される。そしてその自分は、鷹に殺されてしまう。それがひどく辛くて、よだかは遠くの空の向こうへ行くことにしたんだ。弟である川蝉に別れを告げて、東から昇った太陽の方へ飛んで行った。焼けて死んでも構わないから、あなたの所に連れて行ってくださいと太陽に頼むが、太陽には、お前は昼の鳥ではないのだから星に頼んでみると良い、と返される。しかし星々にも、連れて行ってくれという願いは叶えてもらえない」
よだかの星の大筋を聞きながら、七瀬は「可哀想ですね」と口に出そうとして、隣に座る御厨の雰囲気に息を止めてしまった。彼の精悍な顔立ちは、懊悩するように渋面を作っていた。
七瀬が動揺を鎮めている間にも、文月は物語を記憶から引き出していく。
「飛び回って力尽きたよだかだが、それでもまだ飛び続けた。星に近付こうと思えど、その大きさはどこまで行っても変わらない。高く上った空の寒さに凍え、次第に、上っているのかすら分からなくなって行く。暫く経った後に、はっきりと目を開いたよだかが見たのは、自分の体が青く美しい光になって燃えていた様だ。そうしてよだかは、星になって燃え続けたという」
「……すごく、悲しいお話、ですね。よだかは星になれて嬉しかったのかな……」
「よだかが目を開く前に、少し笑っていた、という文章がある。願いを叶えてもらうのではなく、自分で必死に願いを叶えようとして、叶えられたよだかは……嬉しかったのではないだろうか。星になることは、追い詰められた中での唯一の救いだったのだと思う。もっと別の救いがあれば良かったんだが……」
聞き心地の良い金属音がさらりと響いて、七瀬は顔を上げた。文月の顔の前で、銀色の腕時計が揺れる。文字盤の長針と短針の示す先を確認した文月が、それをコートのポケットの中へ仕舞い直した。
「そろそろ店を出るか。御厨、今日は君の分も俺が奢ってやろう」
「この前の薔薇と団子の金返して貰ってねぇからな、利息を付けたらちょうど良いくらいだろ」
「利息高すぎないか?」
「ツッコミそこかよ! 俺が頼んだパスタとコーヒーの値段合わせても、薔薇と団子の値段に届いてねぇからな!?」
見慣れたやり取りを始めた二人の姿に、七瀬はきょとんとしてから、目を細めた。弓なりに曲がった唇を小さく震わせて、ふふ、と息を吹き出してしまう。
七瀬の胸の奥から込み上げた、楽しいという思いは、飲まれた唾に伴われて下へ落とされる。七瀬は、我侭を言ってしまいそうになる唇を薄く噛んだまま、文月と御厨の後ろ姿を追いかけて店を後にした。
(三)
店の前で七瀬と別れた二人は、御厨の店に向かった。三階建ての建物で、一階が店、二階と三階が御厨家の生活スペースになっているという。御厨の店の外観は何度も目にしている文月だが、中に入ったことはあまりない。それほど体型が変化しない文月は、ここ数年、一度も新しい服を買いに行っていないのだ。
自動ドアを通り抜けて店内に足を踏み入れた途端、御厨が両手を忙しなく弄り始める。彼の黒目が右に左にと動いているのを認めて、文月は彼の緊張の原因に見当を付けた。
「君の母親は、店にいるのか?」
「小春の見舞いに行ってなけりゃ、いるはずだけどよ……――あの、有馬さん」
マネキンの服を整えていた、スーツ姿の女性に御厨が声をかける。胸元に名札を付けている彼女は、ここの従業員の一人だ。目尻に薄らと皺を作って笑うと、上品に首を傾けた。
「九重君どうしたの? 今日は手伝いの日だったかしら?」
「いえ、そうじゃないんです。友人を部屋に招こうと思ったんすけど、母さんって上にいました?」
「九美さんならお買い物に行ったわよ」
「そう、っすか。ありがとうございます」
この建物内に母親がいないと分かり、御厨が息を抜くように肩を落とした。御厨は、自分の後ろで何気なく服を眺めていた文月の肩を軽く叩くと「三階行くぞ」と言ってから真っ直ぐ進み始める。色とりどりの服の間を通って行けば、カウンターの奥に階段が見えてくる。レジの前に立っている店員へ頭を下げてから、御厨がカウンターをくぐって階段を上り始めた。文月もその後を追いかける。
三階へ着いて、文月が通されたのは御厨の部屋だ。待っていてくれと言って一旦廊下へ戻った彼を横目で見送ってから、文月は室内を見回す。ベッドと勉強机、箪笥と姿見くらいしか物は置かれていない。机の上に数冊の本が立ち並んでいるのを目に留めて、その背表紙を観察した文月は微笑した。本といってもどれも、彼が学生の頃に使っていたのであろう教科書だ。小説はおろか、漫画や雑誌等もそこにはなかった。本当に彼は本を読まないのだな、と眉尻を下げ、机の上に右手を滑らせた。指先に埃がこびりつく。息を吹きかけて払おうとしたものの、暫し悩んだ後、机の隣に配置されているゴミ箱の上へ手を伸ばし、そこで指を擦り合わせて埃を払った。
ベッドの上の布団は、整えられることなく乱雑に掛かっている。自身の身なりにこだわりを見せる御厨は、しかし決して几帳面ではないのだと再確認した気持ちになって、文月は呆れながらも掛け布団を引き伸ばす。それから退屈そうに姿身へ視線を移した。彼はきっと毎朝これを見ながら、男性にしては少し長めの後ろ髪を項で一つに束ね、三本のアメリカピンを使って髪をセットしているのだろうなと想像をしていたら、扉の取っ手が捻られる。
戻ってきた御厨は水の入ったコップと一冊の本を銀色の盆に乗せて、それを遠慮なく机の上に置いた。
「……おい、その机、大分埃を被っていたぞ」
「あ? あー……使ってねぇからなぁ。まあ気にすんなよ。埃なんてそこら中に浮かんでんだろうし、今ここに置いたからって水ん中に入るわけじゃねぇだろ?」
「まぁ、そう、かもしれないが」
「そこ、座っていいぜ」
ベッドを指差してから、御厨は勉強机の椅子を引っ張った。背もたれの上部にも埃が掛かっていたが、彼はあまり気にせず腰掛け、背もたれに肘を置いて文月の方へ体を向ける。盆の上に乗っていた本を差し出されて、文月はそれを受け取りながらベッドに座り込んだ。
背表紙にも表紙にも何も書かれていないそれは、どうやらメモ帳みたいだった。最初から数ページ目までは、授業の時間割だけがメモされていた。けれど先へ行くにつれ、時間割の端の方に愚痴が書かれ始める。更に捲っていけば、それはもうただの日記帳になっていった。