見上げるはよだかの星3
「贋作を、俺も一回書いて、母親がいない時に読み聞かせたんだ。けど、妹は目覚めてくれなくて、もっと心に響くようなのを書かねぇとって、妹の部屋を漁った時に、日記を見付けた。そこに何回も、死にたいとか、生きていたくないとか、一生、目覚めたくないとか、書いてあってさ。だから、助けて良いのか、分からなくなっちまって」
御厨が話している間、ずっと食べる手を止めていたのか、七瀬の手元にあるアイスが溶けきってしまっていた。葛藤に歪む彼を横目で見るも、七瀬は泣き出しそうに目を細めて、文月の顔を窺った。文月はコーヒーだけをじっと見つめていた。「なあ」と、ざらついた喉に擦れながら溢れた声が、文月を呼ぶ。
「なあ、文月。俺……小春を助けても良いのか? お前に頼んで、助けてもらって、良いと思うか?」
「ああ」
一寸の間も置かずに返した文月は、薄く開いた唇で小さく息を吸って、目を合わせようとしない御厨の瞳を見つめながら付け加えた。
「感情は大抵永続的なものじゃない。だから、目を覚ました彼女自身に、ちゃんと聞いてやると良い。それでもまだ死にたいと言われたなら、君が、生きたいと思わせてみれば良い。大切な妹なんだろう?」
優しさの余韻が完全に薄れて消えてしまうまで、深閑が場を制した。音という音の無い時間は、一秒の長さを錯覚させる。一分が過ぎてしまったのではと思う頃、御厨の「ありがとう」という掠れ声がようやく聞こえてきて、文月は無言のまま軽く頷いた。額を押さえて項垂れた彼から視線を外した文月が、七瀬の手元を指差した。
「溶けているぞ。新しいのを頼むか?」
「あ……いえ、大丈夫です!」
七瀬は皿を口の前まで持ち上げて、杯のようにすると、溶けてしまったアイスを飲み干す。七瀬の分の食事代は文月が払う為、彼女は文月に遠慮しているのだろう。文月はそれを感じ取っていながらも、それ以上は何も言わず、自身の手にあるグラスを揺らした。まだ半分くらい残っているコーヒーを、御厨の頬が乾くまでゆっくり飲むことにした。
声を漏らすことなく双肩を震わせている御厨へ、七瀬が気遣わしげな目を向けたが、彼女は何事もなかったかのように文月の方を向き直る。彼女と視線が絡んで、文月が思い出したように「あ」と口を開けた。
「七瀬、午後の勉強は中止だ。君はこの後、真っ直ぐ家に帰るように」
「分かりました」
大人しく頷いた七瀬を目にし、文月は面食らっていた。綴者としての仕事をこなす文月の姿を見て、学びたいと言っていた彼女なら、一緒に行きたいと言いそうなものだ。駄々を捏ねることなく引き下がった彼女の気持ちを深く考えてみて、そこでようやく文月は理解する。今の御厨の前で、彼女は駄々を捏ねるなんて真似を出来ないのではなかろうか。
事実七瀬は、文月に助けてくれと頼み込んだ御厨の意思に、無関係な自分が踏み入るなんてしてはいけない、と考えていた。それでも行きたい気持ちは少なからずあるようで、文月は、七瀬の瞳の中で自身の像が揺れているのを目に留めて、右手を彼女の方へ伸ばした。けれどもテーブルを挟んだ先にいる彼女には触れることが出来ず、はっとして素早く手を引っ込める。
「文月先生?」
「……虫が、飛んでいたんだ」
七瀬は疑問符を漏らしてから、控えめな声を上げて笑う。文月が撫でようと思って手を伸ばしたことに、彼女は気付いたようだ。照れ臭さを隠すように、文月は頬杖を突いてそっぽを向いた。壁の方をぼんやりと見たまま、声だけを彼女に掛ける。
「次に勉強をする時は、少し、贋作を書く練習でもしてみるか?」
「えっ、なにそれ! 文月先生優しい! やりたいです!」
爛々と光らせた目を瞠って、七瀬がテーブルに身を乗り出した。あまりの勢いにテーブルが少しだけ揺れて、文月はグラスに焦点を移した。半分より少ない量のコーヒーが、零れる心配が無い程度に揺れていた。
「……綴者になる為には綴者国家試験に受からなければならないんだが、その試験で最も重要視されているのが贋作を書くことなんだ」
「試験なんてあるんですね……」
「毎年二月に、隣県の綴市で行われている。来年、その試験を受けてみるつもりはないか?」
問いかけに、七瀬は文月の言葉を頭の中で反芻した。
ようやく落ち着いたらしい御厨が、二人の会話に何気なく耳を傾けている。七瀬の逡巡の合間に、文月はグラスに口付けていた。彼がそれを飲み終えると、七瀬が頷いた。
「受けて、みたい、ですけど。良いんですか? 私高校二年ですけど、それでも受けられるんですか?」
「受験料はかかるが誰でも受けられる。受かるかは別だ。君が受けると言うのなら、受験料は俺が負担しても構わないが、榊田さんとも相談して考えてみてくれ」
眉を寄せつつ、七瀬は首肯する。話が途切れたことを感取して、御厨が今まで閉じていた唇を動かした。
「文月、いいか?」
「それは俺の台詞なんだがな……もう落ち着いたのか?」
「ああ、今ならパスタ食いまくれそうだぜ」
御厨の白目は赤みを帯びていた。両の口端を引き上げてはいるものの、それすら、どことなく疲れていることを感じさせる。文月は彼の軽口を薄く笑って流し、「それで?」と先を促した。
「妹の聖譚は、宮沢賢治のよだかの星だ」
「……そうか」
「よだかの星って、題名は聞いたことあるんですけど、どんな話でしたっけ?」
七瀬に言われ、文月は御厨と目を合わせた。すると御厨は、任せたと言うように文月へ顎を向ける。大息を漏らした文月は、顎に手を添えた。彼の頭の中で、よだかの星の文章が、一文字一文字流れるように浮かんでは消える。
内容を整理しながら、文月は七瀬に話し始めた。