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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第三章
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見上げるはよだかの星1

 煉瓦が敷き詰められた歩道の脇。そこに立ち並ぶ木々が桜の花びらを舞わせている季節のことだ。柔らかな輪郭の花弁が、道に桜色の斑点模様を点々と作っている。雨上がりに出来る水溜りの雨雫を、全て花びらに変えたなら、きっとこういう風になるのだろう。


 思い詰めたような顔で歩を進める御厨みくりや九重ここのえは、足元の可憐な花座布団に目もくれず、容赦なく踏みつけていた。


 彼が顔を上げたのは、とある民家の前に来た時だ。古本屋でもあったそこは、数年前に店主が亡くなって以来空き家となっていた。洋館じみた建物の外壁の一部分に、蔓が絡み付いている。


 数日前にここに住むこととなったらしい今の家主は、町の人間に「綴者ていしゃ様」と騒がれていた。綴者というのが、聖譚病せいたんびょうという珍しい病を治せる医者のような存在だ、ということは御厨も知っている。


 特別と思える書物に出逢った人間が、突然意識を失い、寝たきり状態になる。暫くすると譫言うわごとで詠うように、その作品を朗読し続ける――という、聖譚病と呼ばれる病のことを、御厨はこの数週間で、調べ尽くしたと言っても良いほどに調べ上げた。聖譚病患者を治すには、その病の原因となった書物を基に贋作を書けば良いらしい、ということも耳にして、贋作を一筆認めもした。だが御厨は、自身の文才に絶望を見せ付けられ、筆を折った。


 彼は、助けたい思いと、助けて良いのだろうかという思いで脳が掻き混ぜられて、自分だけではどうしようもなくなり、会った事もない綴者へ頭を下げる為にここへ足を運んだ。藁にも縋る思いだった。


 青空へ伸びる木々に挟まれた石階段を、御厨は深呼吸をしながら上り始める。たった数段昇るだけだというのに、鼓動が早くなり、呼吸が乱れる。未だに、これで良いのだろうかという気持ちが胸の中で暴れ回っていた。


 石階段の先、玄関へ続く石畳を踏み歩いて、ようやく扉の前へ辿り着く。光沢がある木製の扉の取っ手へ、手の平を擦り付けた。金色のドアノブはやけに冷たく感ぜられる。御厨の手の熱が、すうっと奪われて行く。


 息を吸い込んだ御厨が右手を捻ると、鍵は掛かっていないようで、すぐに扉を開けられた。震える足を前に動かして玄関をくぐれば、二階へ続く階段と、本棚に挟まれた廊下があった。


 御厨は家主を探そうとして、階段から響いた靴音に全身を強張らせる。


 紺の袴とブーツを履き、立て襟のシャツにトレンチコートを羽織った少年が、階段の上方に立っていた。二十になったばかりの御厨より、歳が下であることは明らかだ。綴者と呼ばれる人間の息子だろうか、と思って、張っていた気を緩めた御厨に、少年のような容姿の彼は、整った顔立ちで笑みを浮かべた。


「はじめまして、ですよね。こんにちは。綴者の、文月八尋ふづきやひろです。それで、どういったご用件でこちらに?」


 綴者、と、彼は確かにそう言った。御厨は息を呑む。心の中に吐き出した声は、無理だと嘆いた。


 初対面の大人だったとしても信頼出来る自信が無かったと言うのに、まさか、町の人間に様付けで噂話を流されていた綴者が年下だなんて、そんな可能性は御厨の想像のどこにもなかった。


 ここに入った途端、溢れ出してしまいそうだった「助けて」という懇願の言葉は、「助けて良いのだろうか」「助けたい」「けれど助けられるのだろうか」と際限なく湧き出す葛藤の渦に呑まれて、やがて消えてしまっていた。


 文月は微笑しながらも、怪訝の色をその眼に湛え始める。童顔だというのに彼の瞳も仕草も、やけに大人びていた。目を合わせれば胸中を見透かされて暴かれてしまいそうな雰囲気がある。


 御厨はなんとか笑って、文月を見上げた。否、文月の顔まで視線を上げるより先に、彼のコートの左袖に、焦点は釘付けになった。


 そこで、無理だ、という気持ちが、葛藤の渦中から叫んだ。平静を繕おうとする脳髄に、はっきりと聞こえるほど「無理だ」と己の声が響いた。片腕のない若い少年に、自分が為せなかったことを為せるわけがないと決め付けてしまう。


 御厨は、なんともないような笑顔で、明朗快活な声に虚言を乗せた。


「俺はこの町の――情報屋みたいなモンだ。御厨九重。よろしくな。患者が出たら俺が教えに来てやるから、折角だし仲良くしようぜ」


     (一)


 温かいコーヒーを口内に流し込んで、文月は、出窓の外を覗き見た。日が経つ度、次第に色を変えていく木々の葉が、美しい。


 窓から見える範囲の風景を眺めていた文月だが、何気なく、テーブルの上に目を落とす。そこに開かれている新聞には、ここ、書川町かくがわちょうの名が書かれている。数日前に連続殺傷事件の犯人が捕まったことと、その犯人が夢遊病であったことが書かれていた。


 捕まった彼が聖譚病患者だったのを、彼を治療した文月は知っている。彼の逮捕後、その妻が文月のもとを訪れて、治療してくれたお礼にと治療費である千円札を差し出した。その金は、現在文月の財布の中にしっかりと仕舞われていた。


 文月が今隅々まで眺めている記事には、聖譚病に関して一切書かれていない。それに対し、記者の意図は掴めずとも彼は胸を撫で下ろした。


 聖譚病が危険な病と騒がれ、それによって更に本を読む人が減ってしまうよりは、口外されない方が良いと感じたのだ。もしかすると、この事件の記事を書いた者も、同じように思ったのかもしれない。


 そう考えて新聞を見つめていた文月の眼前に、一冊のノートが突き付けられた。そこには数学の数式がいくつも書かれている。視点を上げれば、自信ありげに目を輝かせている榊田さかきだ七瀬ななせの顔があった。彼女の編み込んだ長い髪を留めている髪飾りは、桔梗の花を模したものだ。それが室内光で仄かに煌いた。


「先生、三十ページの問題、解けました」

「よし、後で採点しておこう。それで、そろそろ昼休憩だが、なにか食べたいものはあるか?」

「えっ、文月先生が作ってくれるんですか!?」

「生憎、料理は出来ない。外食でもしようと思ったんだ」

「そういうことかぁ……。そういえば、今日は御厨さん、来ませんね」


 七瀬が、本棚に挟まれた廊下の方へ顔を向けた。彼女の来訪以来、文月の家には誰も来ていない。玄関の扉に付けられた鈴が一日に一度しか鳴っていないのは、ここ最近のことを考えると珍しい。


 文月はどこか不服そうな表情で頬杖を突き、不満を吐き出すような口吻で返した。


「彼はここに来ても、何か言いたげに神妙な面持ちで、黙っていることが多くなった」

「……やっぱり御厨さん、様子、変ですよね」

「まあ、彼が何かを話したいと思うまでは、待つつもりだ。話せと言っても話したがらないかもしれないからな。それで、七瀬。昼食は――」


 話していた文月も、文月の声に耳を傾けていた七瀬も、飛びつく勢いで、瞳を廊下の方へ向けた。鈴の音の余韻が沈黙に吸い込まれる。玄関から歩いてくる人物が姿を見せるまで、七瀬が口を開く様子はなかった。

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