山月記の夜に11
用紙で遮られていた視界に、眠ったままの四ツ木が迫ったのは、文月が予測していたよりも速かった。小さな舌打ちを零した文月は、背を道路に打ち付ける。文月の右肩を押さえ付けた四ツ木が、腕を持ち上げた。白く煌く刀身にひとたびも目を向けず、文月はトレンチコートの内側に手を差し込んだ。袴の腰の紐で固定していたモノを引き抜き、刃が振り下ろされる前に四ツ木の顔面へ突き付ける。
包みを取り去られた三輪の薔薇。それを顔に押し付けられ、数秒動きを止めた四ツ木だが、その腕は文月を突き刺しに来る。しかし、御厨に右腕を、警察の男性に左腕を掴んで引かれ、文月から離された。
立ち上がった文月は後ろへ落ちた原稿を拾い上げて、冬の空気よりも冷ややかな声音を、夜風に攫わせた。
「切りたければ切ればいい。だが、最後までしかと聴いてくれ。これは貴方の物語だ」
緊迫した空気を文月が吸い込んだ。漂う風が針のように鋭かったが、その瞬間に鋭さは嘘みたく薄れて行く。柔らかな空気に、薔薇の匂いが甘く広がっていた。
――君、最後に一つだけ頼んでも良いだろうか。俺の絵を全て、捨てて欲しい。君が忘れられるように。俺が、悔いを残さぬように。躊躇わなくていい。どれも、ただの無価値な紙切れだ。
嘲謔が呻吟のように吐出される。四ツ木の眼の中で、霽月は掻き曇っていた。いいえ、と、その後背で零れ落ちた言の葉に、四ツ木は思わず切歯していた。
いいえ。どの絵も、あなたが頑張ったものでしょう。あなたがあなたらしく在ろうとしたことの、何が無価値だったと言うんです。
小夜風が鳴くほどの深閑に、引き攣った吸気の音が透き通っていく。四ツ木はそれでも振り返ることが出来ずにいた。哀惜を絞り出すだけで彼の喉は締め付けられていた。
今の俺なら、今まで遠ざけてきたモノと、目を背けてきた弱さと向き合える。なのに、もう、遅いんだ。運命はあまりに非情だ。人に戻れたなら、奥へ追いやっていた情けない俺と、向き合えそうなものなのに。一時の激情で背を向けてしまった君と、もう一度顔を合わせられそうだというのに。なあ、君、俺はまだ獣か。獣の姿か? いや、自分で確かめれば良いな。いつだって俺は、君の力を借りてばかりだ。
風が舞う。泣き出しそうに、四ツ木の声が震えた。飛び上がった彼が目指したのは、夜空に浮かぶ月ではない。逆さになった景色に浮かぶ水月だ。
飛沫を上げた川を、妻は咄嗟に覗き込んだ。水面から顔を出したのは、妻が愛した男だった。
――包丁と道路が立てた涼やかな音に、文月は顔を上げる。御厨と警察官に腕を掴まれている四ツ木の手は、脱力したように下を向いていた。
「あ……、あ……」
彼は、開きっぱなしになった口から母音だけを零す。警察官が文月に頭を下げ、彼を連れて行こうとして、今更はっとしたようにトランシーバーを腰から抜いた。慌ただしく、震えた声で確保したと連絡し、花屋がある通りの方へ去って行った。彼らを見ていた文月の視野に、花束が差し入れられる。
地面に落ちていた原稿用紙を左手に持った御厨が、右手で薔薇を手にしていた。
「なあ、お前、なんでこの薔薇持ってきたんだ? 俺の知らない人物に見せびらかすって、まさか、今さっきのことじゃないよな……?」
「いや? 君の言う通り、四ツ木に突き付けるつもりでその薔薇を、ティーローズを用意した。ティーローズは香りが強めで、その香りには鎮静効果がある。精油よりも生花の香りの方が強く、効果も強い、と聞いたことがあってな、試してみたんだ。結局、君が止めに入ったから効果があったかは分からなかったが」
「止めるに決まってるだろ……というか護身用に持つならもっと武器になりそうなモノを用意しろよ!」
「相手に危害を加えたくはなかったし、万一気絶でもさせてしまったら、朗読を聴かせられないだろう」
呆れの意を込められて見上げられる御厨だが、彼も全く同じ視線を文月へ返したかった。しかし苛立ちの方が勝っているようで、文月を睨むように射抜くことしか出来ない。鋭く貫かれても、文月は全く意に介さず、朗々と語り出した。
「月の象徴が、真実への導きを与えるもの、だというのは知っているか?」
「知らねぇよ。それであの結末なのかよ」
「そんなところだ。それと、タロットの月の逆位置には、過去からの脱却。徐々に好転する。未来への希望、などの意味がある。……聖譚病から目覚めた彼に、幸運が訪れてくれれば良いんだがな」
御厨は、文月の顔を見て反射的に口を開いていた。けれども結局何も口にしないまま、上下の唇を合わせる。
患者の身や未来を心から案じ、目覚めた患者を優しい瞳で見つめる彼に、御厨は助けてくれと今すぐ叫んでしまいたかった。