山月記の夜に10
――四ツ木雅也という男は、描画の才能に優れ、学生時代には学内のコンクールだけでなく、県内のものでも賞を得られたが、彼は己の手筋に自信がなかったことに加えて、大学時代交際していた女性と婚姻する予定もあった為、絵描きの道に背を向け一般企業に就職を果たした。しかし、人よりも画布と相対することが多かった彼は、妻以外の人間と上手く接することが出来ず、それゆえか職場の者に軽視されるようになって、不安や不満といった重い感情の塊を心髄に蓄積していった。沈淪させ続けたそれが咽喉まで込み上げるのに、さほどの時間を必要としなかった。ものの数年で、彼は業を煮やして辞職し、再び絵を描き始める。描いた絵を様々な場所へ持ち込んだが、彼の絵は誰にも絶賛されることなく、見ているのかさえ分からない打身と、気持ちのない謝辞だけを投げられた。
行き場が思い当たらずに、黒目だけを彷徨させる四ツ木を、妻が「ゆっくりで良いから無理はしないで」と慰める日々。一時の甘えを自身に向けた四ツ木が、馳せる勢いで家を飛び出したのは、それからすぐのことになる。夜降ちに姿を消して以来、彼は妻のもとへ帰らなかった。
一週間が経過した頃、連続殺傷事件が起きている書川橋へ、深夜、四ツ木の妻が足を運んだ。橋を渡ろうとした彼女の前へ躍り出たのは、一匹の狼だ。犀利な牙を月明に晒し、狼は彼女に飛び付こうとしたが、既の所で身を翻すと建物の影へ転がり込んだ。
「危ないところだった」という呟きに、四ツ木の妻は、もしやと声を上げた。あなた、と、聞き間違えるはずもないくらい耳にこびり付いている音吐が、狼の耳を掠める。震える呼吸を漏らしながらも、かろうじて「ああ」と返事をした彼だが、家を飛び出した挙句こんな姿になった自分を、妻に見せるのは忍びなかった。
四ツ木にとって彼女は、学生時代最も親しい友人であり、人付き合いが苦手な四ツ木を一度も軽視したことのない人物だった。だからこそ現在の関係に落ち着け、生涯を歩みたいと思った矢先の、自身の出奔だ。顔向け出来るはずがない、と思っていれば、妻が、何故出てきてくれないのかと問うてきた。
先程、寸刻とはいえ、この獣の身を曝け出したのだ。分かっているだろう、と返したはずの口は、四ツ木の考えとは全く違う風に動いている。「どうしてこうなったか、その場で聞いてくれないか」。その言葉に伴われていたのは、確かに彼自身の声遣いだった。独りきりで堪えていた感情が流露するように、声は続けた。
家を飛び出したあの日、何かに誘掖されるようにひたすら地面を踏みしめ、駆け続けていた。気付いたころには橋の上にいて、この瞳には流れる川が映っていた。遠く、遠くにある川に薄らと浮かぶ自身の面影。それは不思議と、俺の知っている自分ではないように思えた。口唇の隙間から漏れる息がやけに荒く、夜の音が普段よりも殷々と響いてくる。それを感じながらも、けれどおかしいとは感じていなかった。夢を見ている気持ちだった。だが、橋を通りかかった人間を見た時、意識がどこかへ飛んだ。自我を取り戻した時には俺の両手は血に塗れていて、口の周りに不快感を覚えた。嗅覚を刺激する腥い香りが体に染み付いていたのだ。眼を下ろせば目の前に人だったモノが倒れており、そこで抱いたのもまた「おかしい」というものではなかった。ただ、慄然していた。その憂懼は今も胸を駆け巡っている。それから幾度も意識が閉じて、人を襲ってしまうことがあった。その度、人としていられる時間が日々減っていっていることを本能的に感じていた。きっと君には分からないだろう。知らぬうちに人を喰らっている恐ろしさも、自己が薄れて行く悍ましさも。だが、このまま人に戻れぬのなら、早々に自己が消えてしまえば良いとも思う。そうすれば君に軫憂を抱かせずに済むのだ。
ああ、だけど、恐ろしい。物陰で、すすり泣くように四ツ木は繰り返し、続けた。
恐ろしい。何故こんなことになってしまったのだろう。人は死期も分からず生きているが、やがて死ぬことは分かっている。しかし誰が想像出来るだろう、己が獣に身を落とすことなど。誰が思うのだろう。こんな形で、終わりを迎えてしまうなど。君、そうだ、筆を貸してくれないか。自我が消えてしまう前に、最後に一枚、絵を描いておきたいんだ。頭に死を過らせたことは何度となくあった。だがこうして最期を身近に感じると、まだ死にきれないと叫びたくて堪らないんだ。まだ、何も手に入れられていないんだ。もう一度だけでいい。筆を握りたい。描きたいものがまだある。最後の一枚くらいは、認めてもらえるかもしれない。だから――けれど、ああ。そうか。忘れていた。俺は今、獣だったな。
自嘲的な声が高く響き、夜空の高い所へ登った満月へ吸い込まれて霧消する。空の鉄紺色はほんのりと明度を上げたように思える。四ツ木は建物の影から、嘆声を発した。
きっと、俺は何もかも胸に仕舞い込んだままだったのがいけなかったのだ。胸間に蓄積された君への罪悪感と、そこから生じる劣等感が、あまりに恥ずかしく、孤高と言う虚勢で覆わなければ、もうどこにも行けなかったのかもしれない。自分すら騙すよう、強い自尊心を大きくしていくうちに、罪悪感も劣等感も、全てが胸裡で飽和して、俺を狂わせたのだろう。人間の、感情的になるあまり暴力的になってしまう面を発露し、それだけに止まらず、内側から溢流した俺の真情がこの身すら変えてしまったのだろう。女である君が息せき切って仕事に精を出す中、男である俺が一銭も稼げない。そんな恥ずかしく情けない自身の、せめて外面だけでも強くありたかったのだと思う。俺は強さの意味を履き違えていたようだがね。だからだ、誰の力も借りず、自身だけで絵の才を磨き、他人の言葉は受け入れぬまま、画力を保つことに必死になっていた。独りで何かを成すことで、賞賛を得られると信じていたのだ。だが、どうだ。何にもならなかった。俺が強さだと、讃歎に繋がると信じたものは、ただ他者へ目を向けることで膨らむ劣等感から逃避しただけだ。独りきりで閉じこもっていては、実力も言辞も、何も得られなくて当然だったのだ。何年も描き続け、もう終わるのだと思ってから気付いた。漸くだ。あまりに、遅い。俺はどうすれば良い。どうしたものかと思えどどうにも出来ぬのだ。分かっていても、堪らなくなる。そういう時、俺は込み上げる衷情を遠吠えに乗せ、あの月を眺める。誰か、この痛哭を聞き届けたものに、同情とは違う、他の、もっと優しい何かを向けてはもらえないだろうかと、望蜀の願いを込めてだ。勿論、誰も分かってはくれない。一匹の狼が、晦冥で鳴いているだけだと誰もが気に留めなかった。俺が描いた絵が、そうされたように。
四ツ木が語るうちに深まっていく夜は、空気にひやりとした冷たさを纏繞させていく。青白い月影を受けながら、妻は四ツ木に耳を傾け続けた。四ツ木は自身を嘲弄するような語調で言った。
もう、お別れだ。俺が消える時が近付いてしまったから。名残惜しく思うが、君を寒空の下でいつまでも引き止めてはおけない。君は、こんな獣のことなど忘れて、二度と夜にこの道を選ばないで欲しい。
四ツ木は暗闇から飛び上がるように躍り出た。妻の方など一切見ないまま、彼は橋の高欄の上へ昇る。白く淡い月を眺望し、ふと呟いた。
君、最後に一つだけ頼んでも良いだろうか。俺の絵を全て、捨てて欲しい。君が忘れられるように。俺が、悔いを残さぬように。躊躇わなくていい。どれも、ただの無価値な紙切れだ。
嘲謔が呻吟のように吐出される。四ツ木の眼の中で――。
――朗読をそこまで続けて、焦燥に塗れた声に、文月は目を細めた。右手で原稿を持ち、読み終えた用紙を咥えて引き千切り、地面に吐き捨てては次の用紙を読み、と繰り返していた文月は、御厨と警察官の声を朧げに聞きながら、近付いてくる乱れた靴音をしかと耳に留め、残り数枚の原稿用紙を上空へ投げた。
「文月!」