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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第二章
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山月記の夜に9

「そういえば、俺を助けてくれた綴者に聞いたことがあるんだが……とある綴者が、自身の仕事に関して綴った物語があるらしい。綴者になりたいという君の助けになるかもしれないから、時間がある時に探すつもりだ」

「綴者が書いた日記みたいなものなんですかね? なんか、すごく参考になりそう……! 楽しみにしています!」

「あまり期待はせずに待っていてくれ。俺の恩人によると、大して良いものでもないらしい。ただ、筆者の綴者がどんな風に仕事をこなしていたか細かく書かれているらしくてな。綴者を目指している段階である君には、勉強になるのではないか、と思ったんだ」

「うーん、じゃあ、少しだけ、期待します!」


 横に引かれた七瀬の口から、「へへ」と嬉しそうな息が漏れる。真ん丸の瞳を動かして文月の方を見てみたら、彼は遠くの景色を捉えたまま、郷愁を覚えているようだった。


「文月先生って恩人の綴者さんと仲良しなんですか? 私みたいに、学ばせてくださいって言いに行ったりしました?」

「仲良し……どうだろうな。君のように言いに行ってはいないぞ。治してもらったお礼と、綴者を目指し始めたことなどを手紙に綴り、恩師に送りはしたが」

「手紙かぁ……返事、来ました?」

「いいや。代わりに、本人が俺の家に来た」


 回顧する横顔は困ったように笑っていた。七瀬は、自分では作れそうにない相貌に、彼が大人であることを実感させられる。


「連絡もなしに来たものだから、あれには驚いたが……俺は自分で思っていた以上に彼を慕っていたようでな。顔を見た瞬間に駆け寄って、お礼と『貴方のようになりたい』という思いを、勢いに任せてぶつけてしまった」

「でも、そう言われて嫌な気持ちになる人はいないと思いますよ」

「そうだな。あの人も……人のことを犬のように撫で回して、『綴者について沢山教えてあげよう』なんて、いきなり講義を始め出した」


 その様を想像してみた七瀬が、可笑しそうに小さく吹き出す。


「文月先生もその人みたいだったら良かったのに」

「……君に『勝手にしてくれ』と言った後に、何故あの人のように優しく受け入れられなかったのだろうと、自分で思ったよ」

「えっ、あ、あの、今のはちょっとした冗談っていうか! だって、迷惑になるようなことを言った自覚ありますし! それでも面倒見てくれてる文月先生優しいなって思いますし!」

「それは……少し違うな」


 文月の指先に僅かながら力が込められた。さりげなく引っ張られた七瀬が彼に近寄ると、広い橋の真ん中を一台の車が駆け抜けて行った。切られた空気が風を起こして、七瀬の右肩を小さく震わせる。


 七瀬は、言い消されたものが何であるのか分からず、文月の声に回答を委ねていた。


「優しさではない。ただ……嬉しかったから、俺は君を拒まなかった」

「そう、だったんですか……?」

「……ああ。その嬉しさをどうしたら良いか、分からなくてな。おかげで、俺が恩師にしてもらったようには出来なかったんだ」


 面映いといった様子で唇を歪めてから、文月は「この話は終わりだ」とぶっきらぼうに投げた。七瀬の「はぁい」という声が嬉しそうにしか聞こえず、彼は顔を顰めていく。


 時刻はまだ十九時くらいだが、人の通りは少ない。方今(ほうこん)、七瀬の右側を一台の車が駆け抜けて行ったきり、車とも人ともすれ違わなかった。


 橋を渡ると、秋風が金木犀の香りを運んできた。落ち着いた夜道は人通りの多い昼間よりも、町に漂う季節を深く匂わせる。どこか古風なガス灯の、夕陽に似た灯りに背を向けて、七瀬は『榊田』と書かれたプレートが貼られている石塀の間を通り抜ける。文月の指先に彼女の袖が擦れて、遠ざかった。


 敷地内に入らず、煉瓦が敷き詰められた歩道にそのまま佇む文月へ、七瀬が破顔した顔を振り向かせた。柔らかに撓った、静穏さを滲ませる目元は、淡い月明かりでほんの少しだけ大人びて見える。


「文月先生、送ってくれてありがとうございます。明日、寝坊しないように早寝早起きしますねっ」


 控えめに手を振った七瀬は早足で、玄関まで続く石畳を踏んでいく。その音の余韻に耳を澄ませながら、文月は再び橋を渡った。


 虹彩を少し動かせば、川が視界に入った。街灯や月光で仄かに煌く水は、夜空から溢れた藍色で塗られている。星空を薄らと映している水面みなもが、流水によって明滅するように色を変える様は美しく、いつまでも眺めていられそうだ、と文月は感じた。


 そんな彼が橋の上で足を止めたのは、一分にも満たない短い時間だ。それでも、その顔を覗き見た者がいたなら、彼の視線の先を思わず辿ってしまったろう。


 それくらい、彼は水面に揺蕩う三日月に、眼を縫い止められていた。


     (三)


 午前零時。文月が七瀬を送り届けた時よりも、心做しか夜の暗色が濃くなったように思われる。書き上げた原稿をダブルクリップで留め、それを右手に持って御厨の店の前へ赴いた文月は、手を振る御厨を目にして唖然とした。正確に言うなら、彼の傍にいる一名の、警察の制服を着た若い男性を目に留めて、だ。


「……御厨、君、そうか。俺は患者のことばかり考えていたから、そこまで頭が回らなかった」

「いや、一時間くらい前から彼が見回りしてたからよ、あっと思って声掛けて、事情を話したんだ」


 御厨に、まるで知人を紹介するような手振りと視線を向けられた警察官が、文月に向けて綺麗な敬礼を見せた。


「郵便局前と花屋の前にも、それぞれ一名を控えさせています。……それにしても、まさか犯人が聖譚病に罹っているなんて……。目覚めさせなければどうにもなりませんから、犯人の治療をよろしくお願いしますね」

「分かりました」


 彼に頭を下げた文月は原稿を眺め始める。緊張感からか、意図せず吐き出した長い息が、紙にかかる。文月は御厨の店の前辺りにある電柱に寄りかかって、書川橋に一瞥をくれてから、自身の書いた贋作を読み続けた。


 それからどのくらいの時間が過ぎた頃だったか、何かを地面に落としたような金属音が響いた。微かに、とても小さな声も聞こえる。服飾屋の向かい側にある建物の、そこから一軒西側に建っている和菓子屋。その辺りから聞こえた音に、御厨も警察官の男性も顔を上げている。ゆっくりと音の発生源へ近付いて行く男性の顔が強張っていることと、指先が僅かに震えているのを見て、文月は唾を飲んだ。


 連続殺傷事件を起こしている患者が現れれば、いくら護衛に御厨や男性がいてもどうなるかは分からない。警察官と言えど彼も人間だ。文月は自身の、戦慄に近い緊張を、唾と共に飲み下した。


 ひ、と息を吸い込んだような、悲鳴に似た声が文月の耳を突いて、文月は電柱から背を離し、和菓子屋の方を睨み据える。後退した男性が慌てながらも、暗闇から突き出た腕を掴んでいた。


 男性に引きずり出されるように、街灯に照らされる位置まで足を進めて姿を現したのは、白いワイシャツにジーンズを履いた男だ。掴まれている腕の先には、包丁が握り締められていた。彼の袖口が乾いた絵の具で彩られているのを確認して、文月は彼が四ツ木雅也であると確信する。


 四ツ木を取り押さえようとしている警察官から視線を逸らした文月は、唇を噛み締めて、手元の原稿の文字を追った。


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