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贋作聖譚伽  作者: 藍染三月
第二章
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山月記の夜に8

 テーブルの前まで行くと、彼女が慌てて謝罪をしながら、盆の上からカップを奪う。文月は盆を足元に置いて、彼女の向かい側に腰を下ろした。


「別に、君が謝る必要はないだろう」

「だ、だって文月先生、火傷とかしたら大変じゃないですか!」

「大丈夫だ。七瀬、君がコーヒーを飲んだら、君を家まで送る。それは後で夜食として頂こう」


 顎でおにぎりを指してから、文月は砂糖も牛乳も入っていないコーヒーを一口飲み、今座っている椅子の後ろの、壁に立てかけられているアタッシュケースに手を伸ばした。足元でそれを開いて、原稿用紙とガラスペン、インクを取り出す。


 贋作を認めようとした文月の耳を、七瀬の明るい声が撫でた。


「文月先生のガラスペンって、綺麗ですよね」


 インク瓶に差し込んだガラスペンを、文月は、改めてまじまじと見つめた。白藍で染まった硝子。その中に、白く長い楕円のような模様が三つあり、その内側あたりに短めの楕円が三つ。六枚の花びらの如く、首軸から胴軸へ向けて広がっている。


 インクで穂先を色付け、文月は口元を綻ばせると、原稿用紙に文字を書き始めた。


「待雪草の花弁のようで、気に入っているんだ」

「マツユキソウ?」

「スノードロップ、と言えば分かるか? 白く可憐な花だ。希望という花言葉を持っている」

「へえ……本当に素敵ですね! スノードロップかぁ……後で調べなきゃ」


 明るく、大きな声で話す七瀬は、文月の筆を止まらせる。人と会話をしながら文章を書くことが、文月は苦手だ。しかし、彼女に喋るなとは言えない。書いている様を見るなとも、口に出せない。文月の視界の端で、彼女が目を輝かせてガラスペンの先を見つめていたからだ。


 集中出来ないからといって、ペンを置いてしまうことも、文月には出来なかった。今夜四ツ木に読み聞かせる為、時間がない。


 四ツ木と山月記をどう絡ませて、どのように短く綴るか。その構想が頭の中でしかと組まれていても、平静を繕った文月の顔は度々懊悩に歪む。ちょうど出窓の向かい側の壁に掛けられている時計が、いつの間にか静まっていた室内で時の刻みを高らかに告げていた。


 初めから終わりまで書き上げたかと思えば、文月はそれを横目に見ながら、また一から書き始めた。書き写しているわけではなく、それを下書きに、より細かな描写などを加えたり、下書きにはなかった場面を加えたり、不要と判断した部分を削って、また少し違った贋作を書いていく。


 椅子が引かれた音は、この場だととても大きく響いた。文月が顔を上げると、七瀬が席を立っている。手には、空になったカップが握られていた。


「洗って片付けたら、帰りますね。文月先生忙しそうだから、一人で帰ります」

「いや、外はもう暗いんだ。榊田さんも心配するだろう。送らせてくれ」


 水音に耳を傾けながら、文月はペン置きにガラスペンを乗せる。まだ半分以上入っているコーヒーを一口飲み、それをそのままにして立ち上がった。カップを洗い終えた七瀬が戻ってきたのを確認すると、文月は彼女の傍に寄って、セーラー服の袖を軽く引っ張る。そうして廊下へ向かう文月に続き、彼女は戸惑ったような声を出した。


「あ、あのっ、別に私、逃げ隠れたりしませんよ?」

「君がもし攫われでもしたら、榊田さんに合わせる顔がないじゃないか」


 文月の呆れ声に、七瀬は、控えめに袖を引かれている意味を理解する。肌には触れられていないから、体温は勿論伝わってこない。けれども七瀬の心は少しだけ、温かくなった。


 玄関から外に出て、七瀬は文月に訊いた。


「贋作を書いているっていうことは、今日の夜とか朝に朗読するんですか?」

「……さぁ、どうだろうな」


 少しだけ冷たい風が頬を滑って行く。暗がりの中で見上げた空に、三日月が掛かっていた。七瀬は、瞳に月光を宿したまま、ローファーを鳴らした。


「山月記、なんですよね。今回の聖譚病患者の、聖譚って」

「ああ。……山月記という題名は、作中で李徴が詠む詩の中の『此の夕べ渓山けいざん明月めいげつに対し』という一節が由来になったと言われている。作中での山と月は、山が李徴の獣を、月が李徴の人間の心を表している、と言われることが多いような気がするな」

「そうなんですか?」

「そう聞いたことがあるだけだ。作中の何が何を表しているか、という考えは、人によって異なることが大半だ。そしてその十人十色な推測のどれもが、様々な想像に繋がる種子の一つだ。君が何かを読んで自分なりの解釈をしてみたら、そこから更に想像を広げ、君なりに作品の深みを見つけてみると良い。……こう考えると、読書は採鉱に似ているな」


 新発見だ、と呟いた彼の表情が微かに輝く。七瀬の瞳の中でその横顔が子供っぽく見え、楽しそうに続ける彼を、七瀬もまた楽しそうに見つめた。


「山に関しては様々な推測が立てられるが……月は李徴の人間の心との繋がりを持っている、とは俺も思う。そういう解釈に結びつくような描写があるからな。それに月は感情や感受性を意味する。ただ、他にも様々な象徴を持っているから、なんとか贋作を真作とは違う結末に持っていけそうだ」

「象徴……ってなんか面白いですね。山は?」


 面白いと言われたことが嬉しかったのか、それとも質問を受けたことが嬉しかったのか、文月の瞳は優しさを帯びて細められる。


「山には、自我の確立、困難、創造性といったような象徴があり、人はしばしば、山を神のような存在として崇めてきた。『山月記』という題名は、全てを見知っている神に近い存在――山が記した、月の話……とも考えられるな、と俺は思っている」

「へぇ……!」


 七瀬の感嘆の吐息が夜空に吸い込まれて行く。文月から聞いた話を七瀬が頭の中で纏めている間、遠くから聞こえる鈴虫の鳴き声が緘黙を埋めていた。煉瓦の歩道から書川橋に進めば、靴音が高く響き、下方を流れる川と涼やかな合奏を始める。


 気まずさ無しに自然と会話が無くなった中で、先に話し出したのは文月の方だ。

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