山月記の夜に7
(二)
四ツ木雅也という男は印刷会社に勤めていたものの、職場での人間関係が上手くいかず、娘が生まれて数年経った頃に退職したという。それから別の仕事を探して、就職活動に勤しんだが、どこにも採用されることなく、絵を描くようになったそうだ。学生時代から美術の成績が良く、何度か受賞もし、美術大学も出たという彼は、自身に出来ることで稼ごうとした。彼の妻は毎日働いて稼いでくれており、彼女は「稼がなければ」と必死になる彼に、ゆっくりで良いから無理はしないでねと優しく言っていたようだ。
しかし、働きに家を出る妻の姿や、まだ小学生の娘が家事をしてくれている姿を見て、彼は罪悪感と劣等感を胸の内で膨らませていったのではないだろうか、と、彼の妻は語った。それらが大きくなりすぎて、家を飛び出したのだろう、と。
訪れた家でその話を聞いた文月と御厨が、茜色に染まった帰路を辿る。四ツ木の妻によると、二週間ほど前に家を出てから彼の姿は見かけないし、帰ってくる様子もないらしい。暫くそっとしておいて欲しいのではないか、と思った彼女は、夫の捜索願を出してはいないようだった。
沈んで行く夕陽を眺望する文月は、とても険しい顔をしていた。一筆認める前の文月は普段よりも鋭い瞳をしているが、今日は御厨が見たことのある彼の瞳の中で、一番と言って良いほど雰囲気が刃に似ている。
「文月」
「御厨」
互いの名は、見事に重なり合った。団子でも食うか、と笑って言うつもりだった御厨は、彼の真剣な面持ちと向かい合って、何も言えなくなる。
文月の言葉の先を促すような空気を、彼自身感じ取ったようだ。彼は、御厨が何も言わずとも正面に向いて、道の先にある洋館じみた建物を見据えていた。
「俺は夜までに贋作を書き上げる。出来る限り真作よりも短い話にするつもりだ。患者の意識は眠っていても、その身体が動くのだから、長い話を朗読して聞かせている暇は無い」
「あ、ああ、そうだな」
「だが、短編にしたとしても、俺は片腕しかないからな。原稿を持って読むだけで精一杯だ。だから今夜、君は、死なない程度に俺の盾になってくれ。勿論、命の危険を感じたらすぐに逃げろ」
御厨は、自身の目前に切っ先が迫る場面を想像してみた。それはもう、どれほど大切なものが目の前にあっても逃げ去りたいくらい、恐ろしい瞬間だ。文月にこう言われなくても、御厨は逃げ出す自信があった。
だが、逃げる己の姿を思い浮かべて、ほぼ息に近い声で「カッコ悪ぃ」と零した。苦笑しながら文月に言葉を返す。
「俺が逃げたら、お前はどうすんだよ」
「決まっているだろう。この口が動く限りは、患者へ贋作を読み聞かせる。俺は自分の仕事を投げ出さない主義なんだ」
「へぇ、じゃあ俺もその主義を真似するぜ。護衛役、任せときな」
虚勢でもなんでもなく、文月は、心からそう思っていて、実際にそうするのだろうなと、御厨は感じていた。患者の為なら命をも捨ててしまいそうな文月と、何に代えても自分の命を守りたい俺は、どちらがカッコいいだろう。頭に浮かんだ疑問に、御厨は人知れず笑みを浮かべる。
きっと、人として正しいのが自分で、そうではないのが文月だ。けれど美談の種にされるのは文月の方だろう。そこまで考えて、御厨の思考は止まる。
胸の奥底に沈めていた、文月に対して抱いている感情。それが、無意識下で溢れ出していた。数刻前、四ツ木の家で聞いた言葉が御厨の脳裏を掠める。唾を飲み込んで、それと一緒に、込み上げてくる感情を下へ下へと流し込んだ。
「では、零時に君の店の前で……――御厨?」
視界が、狭まって黒ずんで行くように感じていた御厨は、目を瞠った。気が付けば、文月の家の前まで来ていて、彼は玄関へ続く石階段の一段目に片足を乗せていた。こちらに振り向かせられた涼しげな顔が、御厨の唇を震わせる。
涼しい顔をして何だってこなしてしまう彼――そう思ってすぐに胸中で否定した。彼も人並みに苦悩し、葛藤し、取り乱す。それを、傍で見てきたから知っているはずだ。けれどそれ以上に御厨は、誰かを救おうと真っ直ぐに突き進む彼を知っている。そんな彼は、御厨にとって尊敬の対象だ、というのに。
「あ、ああ。分かった」
不自然に掠れたような声が、ちょうど通りかかった自動車の音に掻き消される。車が遠ざかり、互いに静黙としたまま固まっていると、文月の右手の中で花束のビニールが潰された。
何か、怒号に似たものが放たれると直感した御厨だが、それは外れる。文月が最後に見せた顔は、困ったような微笑だった。
「……あ」
文月の背中が扉の向こうに消えて、どのくらい経った頃だろう。御厨は、手にしていた団子の手提げを彼に渡し忘れていることを思い出し、玄関をノックしようとしたが、結局踵を返していった。
扉の横にある窓から御厨を見送り、文月は廊下を進んで行く。持ち上げた手を自身の頭に近付けて、そっと体の横へ下ろした。その手に花束が握られていなかったなら、頭を掻き毟っていただろう。彼の身体中で渦巻く苛立ちは内側だけに止まらなかったようで、室内に響く足音が暴力的だった。
真っ暗な部屋の電気を、廊下の壁のスイッチで点けて、いつものテーブルに花束を投げ置こうとした文月は、動きを固めた。七瀬が、出窓の傍の椅子に腰掛け、卓上に組んだ腕の中へ顔を埋めて寝息を立てていた。家に送った彼女は、あの後再びここに来ていたみたいだ。
彼女の前には、海苔の巻かれたおにぎりが三つ、ラップが掛けられて置かれている。普段おにぎりすら作ることがないのか、その形は不恰好だ。文月は自然に笑みを零してしまった。出窓に花束を置き、七瀬の傍に立つと、彼女の肩を優しく揺さぶる。
「七瀬」
「ん……?」
どうやら眠りは浅かったようで、彼女の瞼はすぐに持ち上げられた。それでも眠そうな目のまま、彼女は「お姉ちゃん?」と呟いてから、はっとしたように上半身を起こした。
「ふ、文月先生……なんで?」
「それは俺の台詞だ。何故君は、またここに来て、しかもこんな所で眠っている? 風邪を引くぞ」
「そっか、寝ちゃったんだ……。文月先生、私、家から教科書全部持ってきたから! 明日から、勉強、教えてください」
台所に向かいながら文月は、その手前の本棚に、開かれたキャリーバッグが置かれているのを認めた。中身は何冊もの教科書だ。苦笑してから、台所でカップを二つ用意し、湯を沸かし始める。
「君の学校は、何時から何時まで授業をしている?」
「え? えっと、六時間授業の日だと、九時から、十四時ちょっと過ぎくらい、までだった気がします」
「分かった。じゃあ明日から、それと同じ時間、教鞭を執ろう。時間割は君の好きなように組むと良い。ただ、一週間に全教科一時間以上は入れること」
はーい、という声を耳にして、文月はカップに湯を注いだ。七瀬のものにはスティックシュガー二本分の砂糖を溶かし、牛乳を少し加える。台所の下の棚から盆を取り出して、そこにカップを二つ載せたら、右腕で抱え込むように盆を持って、七瀬のもとへ行った。