山月記の夜に6
橋の一番手前にある和菓子屋の暖簾をくぐると、七瀬と同じ歳くらいの少女が、明るい声で出迎えた。カウンターの奥に立っている彼女は、ガラスケースに置かれている商品を指差す。
「新商品の、こしあん団子チョコチップ入りはいかがですか?」
「……普通のこしあんの団子、三本入りのを下さい」
「待て文月、お前そのお金……」
御厨が制止の声を上げる前に、彼女が「かしこまりました!」と包装紙を取り出して、団子が三本入った容器を包んで行く。楽しそうに接客をしている彼女を止めるのは憚られ、御厨は大きく溜息を吐き出しながら財布を取り出した。
丁寧に包んで、手提げ袋に入れてくれた彼女へ、文月が質問をし始める。
「あの、連続殺傷事件の話をお聞きしたいのですが」
「え? えっと、警察の方ですか? お話なら今朝……」
「いえ。綴者です」
正直な職業を口にした文月へ、少女は「テイシャ……?」と繰り返し、首を傾けた。詳細を説明するのは面倒と判断したのか、文月はそのまま問いだけを重ねる。
「ここ一週間で姿を見かけていない知人はいますか? それと、山月記という作品を最近目にしたことは?」
「山月記?」
食いつくような鸚鵡返しに、文月は僅かだが目を大きくした。カウンターに身を乗り出した少女も、同じように瞼を持ち上げていた。
文月の隣で、御厨が彼女へ金を差し出す。彼女はそれを受け取って、団子の入った手提げ袋を御厨に渡しながら、辿った記憶を唇から零していった。
「えっと、よくここに来てくれる、四ツ木さんという男性のお客さんがいるんです。絵描きさんなんですけど、二週間前くらい、すごく悩んで、苛々もしていて。私、アルバイトみたいな感じで週に三回母の手伝いをしているだけだったんですけど、四ツ木さんとはよく会っていたし、何回も話していたんです。だから、力になりたくて色々考えて」
「もしかして、それで山月記を渡したのか?」
取り乱しそうになる心を無理やり落ち着けて、なんとか早口で語っている少女に、御厨が言った。彼女は数度、頷き返した。
「学校で、山月記を習ってて。四ツ木さんと李徴って少し似てるように思えたので、ほら、共感出来る相手がいたりすると、少し元気出るじゃないですか。だから、教科書の山月記のページを……教科書って印刷しちゃダメだと思うんですけど、印刷して四ツ木さんに、良かったら読んでみて下さいって渡したんです」
「四ツ木さんはここでは読まなかったんですか?」
「は、はい。後で読むよって、疲れたような顔で笑って、持ち帰りました。っあの!」
再び、ずいと顔を寄せられ、その勢いに気圧されるよう、文月は身を少し後ろへ傾ける。動揺塗れの瞳が、ほんのりと潤んでいて、感情的な胸の内をありありと見せ付けていた。
「連続殺傷事件を起こしてるのって四ツ木さんなんですか? どうして? お母さんを刺したのも、優子のお父さんを殺したのも、四ツ木さんなんですか? あの人優しくて、私に絵を教えてくれたり、ホントに良い人なんですよ!?」
矢継ぎ早に疑問符を投げつけられ、文月も御厨も、彼女が声を止めるまで言葉を呑み込んでいた。叫んだ彼女がカウンターから体を離して「ごめんなさい」と小さく呟く。その謝罪は今の、怒鳴り声に似た叫びに対して、だけではないのだろう。
御厨が彼女を気遣って声を掛けようとしたが、それよりも先に、文月が静かな吐息を落とした。
「聖譚病、という病をご存知ですか?」
「せいたんびょう……?」
「特別と思える書物に出逢った時、突然意識を失い、寝たきり状態になるんです。それから暫くすると、譫言でその作品を朗読し続ける。四ツ木さんは今、その病に罹っています。ですが彼は恐らく、睡眠時遊行症でもあるんですよ。本来寝たきりとなる聖譚病患者ですが、その睡眠時遊行症の影響で、彼は眠ったまま歩き回り、無意識下で人を傷付けてしまっているんです」
わけが分からないと言いたげな顔をしながらも、彼女は文月が説明してくれたことを理解しようと、単語一つ一つを小さな声で復唱していた。
乱雑としていた頭の中がようやく整理されたのか、少女はじっと文月だけを見ていた虹彩をカウンターの上に下げる。
「でも、それってやっぱり、私のせい、ですよね。ごめんなさい。私が、四ツ木さんに山月記を渡したから……」
「何が悪いか、誰のせいかなんて、考えなくて良いと思いますよ。原因というものはどこまでも辿れるんです。延々と続く道を辿るのは疲れるだけでしょう。長い道の中で何に目を付けて立ち止まるかなんて、人それぞれなんですから」
顔を上げないまま、でも、と掠れた声を溢れさせた少女に、文月は仕事時の優しい笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「貴方が自責の念を抱えたまま立ち止まるとしても、少なくとも私は貴方を責めませんし、四ツ木さんを責めるつもりもありません。重なった偶然に苦虫を噛むだけです。まあ、つまり……貴方や四ツ木さんを責めない人間がいるということを、覚えておいてください。それだけできっと――先程の貴方の言葉をお借りするなら、『少し元気が出る』と思いますよ」
暖かさだけに包まれた声が、少女の顔を引き上げた。泣き顔と笑顔が入り混じった表情で、彼女が返したとても小さな「ありがとうございます」という言葉は、尻すぼみに消えていく。
「こちらこそ、ありがとうございました」
少女にただ一言を渡して、文月は店の入り口へと歩いて行った。黙って二人のやりとりを見ていた御厨が、視界から消えた文月の後に慌てた足取りで続いた。
店を出るや否や、文月は手にしていた薔薇の花束を、御厨の眼前に突き付ける。強めの香りに眉を寄せた彼へ、文月が尋ねた。
「四ツ木、という男の身元は?」
「四ツ木さんっつーと、七瀬ちゃんの家の先の、横断歩道を渡って少し歩いた所にある家だな。四ツ木さんには奥さんと娘がいる」
「そうか……行こう」