山月記の夜に5
「ちなみに言っておくが、今俺が鞄を持っていないのは忘れたからではない。夜までに情報を集めなければならない為、邪魔になると判断して置いてきただけだ」
「あ、ああ。そんなことは気にしてなかったし、言おうと思ったのはそんなことじゃねぇぞ?」
目を丸くした文月は、御厨が多少なりとも鞄のことを気にしている、と思っていたみたいだ。何も持っていない自身の手に一度視線を移した後、文月は空気を変えるように御厨へ背中を向け、道を眺めた。
「この通りで事件の被害が出たのは何回だ?」
「ここは、三日前に負傷者が一人出ただけだ。俺の店がある通りは四日前に死者が一名、昨日と今日は負傷者が一名ずつ。郵便局がある通りは一昨日負傷者が一名出てる」
「そうか。なら、取り敢えずこの通りで聞き込みをしたら、次は君の店がある方へ行く。……聞き忘れたが、負傷者や、亡くなった者の身元は?」
御厨はグレーのスーツの胸ポケットから黒い手帳を取り出した。そういったことに関しては調べていたようだ。紐の栞が挟んであるページを開くと、彼は書かれていることを述べていく。
「この通りの被害者は、花屋の店員だな。腕を、軽くだが切られたみたいだ。俺の店がある通りは、和菓子屋の店員が軽傷、新聞配達員が軽傷、仕事帰りの男性が亡くなってる」
「ならまずは……花屋か」
文月が目を向けたのは、橋を渡り、歩道を歩いて行けば二軒目にある建物だ。店の入り口に色とりどりの花が置かれており、テント看板には『書川生花店』と書かれている。
早速文月は店の前まで行くと、入店する前に左右を見て、右手側にある花桶へ手を伸ばした。彼が手に取ったのは、三輪の薔薇の花束だ。長く真っ直ぐな茎に、一輪だけ、薄い桃色の大きな花が付いている。花弁を鼻先に近付けて眉を寄せてから、彼は地面に顔を向け、とても小さなくしゃみで肩を震わせた。
その一部始終を見ていた御厨が、可笑しそうに笑いながら首を傾ける。
「文月、お前なにやってんだ」
「……確認しただけだ」
「花の匂いが無理なことを?」
「違う」
嘲笑に似た笑みを向けられ、文月は御厨を睨んで、店内に足を踏み入れた。中で鉢植えの整理をしていた三十代くらいの女性が「いらっしゃいませ」と笑顔を咲かせる。
文月は手にしていた薔薇の花束を彼女に差し出した。
「これを、お願いします」
「かしこまりました」
花束を受け取った彼女が、いくつもの花桶を通り過ぎてカウンターの奥へ進む。レジを操作し始めた彼女に、御厨がメモ帳を開いて問いかけた。
「あの、三日前、連続殺傷事件の被害を受けた方は、いらっしゃいますか?」
「え、っと、私ですけれど」
事件のことを問われるなどと思っていなかったのだろう、彼女は一瞬の動揺を見せた。しかし顔を上げて、カウンターの前に立っている文月の隣の、御厨の姿を認めて納得したように頬を緩ませる。
「あら、御厨くん。いたのね」
「いくら後ろにいたとはいえ、文月より俺の方が背ぇ高いのに気付かなかったんすか?」
「彼の格好があまりに時代錯誤に思えて……いえ、綺麗なお顔だったから見惚れてしまったのかもしれないわ」
「あ、良いんですよ、言ってやって下さい。お前ファッションセンスが異彩を放ってるぞって」
笑い合う二人を横目に、文月は弧を描いた唇を、裏側で噛み締めた。歪みそうになるのを歯で押さえつけつつ、レジに表示されている値段を確認して、コートのポケットに手を入れた。中を弄り、引き攣った笑みのまま、御厨の腕を小突く。
文月に怒られたのかと思った彼は、文月から一歩分程度離れると、冷や汗を浮かべた。
「か、からかい過ぎた。悪い」
「御厨、財布を忘れたようだ。払ってくれ」
「ああ、分か……っはぁ!? ったく仕方ねぇなぁ!」
御厨が黒い皮の長財布を取り出しているのを見ている文月に、「あの」と控えめに声が掛かる。焦点をそちらに変えたら、店員の女性が笑顔で言った。
「御厨くんはああ言っているけれど、あなたの静かな雰囲気とその服装はよく似合っていると思いますよ。御厨くんだって、煌びやかな雰囲気をしているから派手な格好が似合っているんですもの」
上品な笑みに、思わず文月は目を逸らした。褒められたことに照れたのだろうかと、御厨はにやけ面で彼を見ていたが、彼はすぐにはっとして顔を上げる。
「腕を切られたと聞きましたが、傷は、大丈夫ですか?」
「ええ。深くはなかったので。それで、聞きたいことは犯人の特徴とか、思い当たる人物とか、ですよね。警察の方にも聞かれたんですけれど、暗かったので、背格好から男の人だということしか分からなくて。何かをぶつぶつ呟いていましたが、怖くてちゃんと聞いていませんでした。ごめんなさい」
「いえ、男性だったんですね。ありがとうございます。貴方の知人で、ここ一週間ほど姿を見せていない方はいますか? それと、山月記という作品を、ここ最近目にしたことは?」
「一週間……ううん、常連さんは今週も来てくれているし、店長や他の店員も失踪などはしていませんし……やっぱり、思い当たる人はいませんね。山月記は、学生時代に少し読んだことがありますよ。この年になったらもう教科書を開くことなんてありませんけど」
文月に返事をしながら、女性は御厨から現金を受け取り、レジを操作して釣り銭を彼に渡す。
「そうですか……。教えてくださり、ありがとうございます」
文月は礼儀正しく頭を下げると、女性から花束を受け取って、店を後にした。財布を仕舞い直した御厨が文月の隣に駆け寄り、橋の方へ背を向けて真っ直ぐ進んだ彼と並んで歩く。彼が手にしている花束をまじまじと観察したら、ようやく意を決したように開口した。
「なあ、その花束、七瀬ちゃんにでもあげるのか?」
「何故だ? 七瀬が、花を欲しいと言っていたのか? そうなら、一輪くらい分けてやっても構わないが」
「いや、そうじゃねぇけど……お前花束を贈る相手なんていないだろ」
「何事も、こうだと決め付けて考えたら、本来浮かぶはずの分岐先が見えなくなるぞ」
横断歩道を前にして、渡りはせずに南側――右側へ方向転換し、曲がり道に差し掛かるとまた右へ進んだ。向かい側に御厨の店がある道だ。そこを橋の方へ進んで行く。
「贈らねぇなら、飾るのか?」
「そんなわけないだろう。そうだな……君の知らない人物に、見せびらかすんだ」
「……お前ってホント、何がしたいのか分からないよな」