山月記の夜に4
背中の向こう側から文月に呼びかけられ、七瀬は息を呑む。何故、いつから気付かれていたのだろうと思いながら、その疑問を振り払うように頭を左右に動かし、スカートの埃を払いながら立った。本棚から彼らの方を覗き込むと、御厨が椅子に座ったまま、苦笑いだけを振り向かせている。
「七瀬ちゃん、ここじゃ革靴の音は響くんだから、足踏みとかした方が良いぜ。あと、本棚に背中ぶつけないように座るとか」
「御厨、君はどうする? 付いて来るか? それともここで待っているか?」
「あー、間を取る」
「は? ……七瀬、行こう」
数秒考えて、御厨がどうするのか察したらしい文月は、呆れた、と視線で彼に伝えてから七瀬に向き直る。付いてくるだろうと思って歩を進めた文月だが、足音は自身のもの以外響いてこない。歩みを止めて背後を窺ってみれば、七瀬の不服そうな視線に射抜かれた。
「文月先生、どうして聖譚病患者が出たのに私は除け者なんですか」
「……話を聞いていたんじゃないのか。今回の聖譚病患者は、連続殺傷事件を起こしている者だ。それに患者と接触できる時間は深夜から早朝にかけて。君はきちんと睡眠を取り……いい加減学校に行った方が良い」
姉の死後、学校に行かなくなっていた七瀬。聖譚病に罹り、治った後も登校していないことを、彼女がここに来る時間と曜日を鑑みて、文月は知っていた。彼女も隠していたわけではないだろう。しかし、学校という名詞を口に出されて、その顔に不機嫌の色が表れる。
「別に、学校に行ったって、そこで学べることは私にとってどうでも良いことだし。お姉ちゃんが亡くなってから、私を腫れ物扱いするような空気が鬱陶しいし」
「君が綴者になりたいと強く望めば、確かに学校に行かなくても独学で学んで、いつかは綴者になれるはずだ。けれど、君のその時間は今しかないんだぞ。後悔する未来が少しでも見えるなら、ちゃんと行った方が良い」
文月は、まるで親や教師みたいなことを言う。彼の言葉と、頭に浮かんだ大人の顔が重なって、七瀬は俯いた。自分を救ってくれた人でも、結局は他の大人と同じなのか、と唇を噛んでいたら、彼の嘆息が聞こえてきた。
「まあ、行きたくないなら無理にとは言わない。君が鬱陶しいと言っていた空気がどういうものか、想像はつく。ただ、綴者になりたいのなら学ぶことを疎かにするな。学校ではなく俺の家に通うなら、教科書を持って来い。どの教科も教えられる範囲で教えてやる」
「文月、先生」
「……済まない七瀬。俺は高校の授業も受けてみたかったから、君にとっては口にしないで欲しいことや鬱陶しいことを言ったかもしれない。不快に思ったなら全部忘れてくれ」
呆然としたように文月を見上げる七瀬に「行こう」と投げかけて、文月は再び玄関へ歩き始めた。慌てた足取りで七瀬が彼の背を追いかける。扉の開閉音を聞いてから、御厨は二人の後を追った。
外へ出て、歩道を辿る文月の隣に、七瀬は駆け寄る。
「文月先生は、なにをどう学んで綴者になれたんですか?」
「そうだな……ひたすらに小説を読んで、書いていたな。新しい作品や古い作品、本屋や図書館にあるものを全て読む勢いで何冊も読んでいるうちに、自然と書きたい思いが湧いていく。それで、読むのを一旦やめて物語を作ってみる、ということをしていた。他に何をどう学べば良いのか俺には分からなかったんだ」
「……どうして綴者を目指したんですか?」
煉瓦が敷かれた歩道を進みながら、七瀬は、自分よりも頭一つ分くらい高い位置にある文月を見上げた。歩道と車道の間に並ぶ木々から陽光が漏れている。木漏れ日を浴びた彼は薄く笑っていた。
「君と似たような理由だ。聖譚病に罹って、綴者に治してもらった。目を覚ました時……箱の中に残されたままだった希望を、見せてもらったような感覚を覚えた。片腕が無くて働けない俺でも、書くことは出来ると思ったから、綴者を目指したんだ」
「……やっぱり私、文月先生みたいな綴者になりたい」
照れ臭そうに、けれど楽しそうにも見える表情で語る彼に、七瀬はぽつりと零した。車の通りが少なく、その呟きを掻き消すほど大きな音はどこからも響いていなかった為、彼はその一言をしかと聞き取っていたようだ。彼の切れ長の吊り目は、柔らかく細められる。
「なら、沢山の本を読んで学ばなければならないな」
「沢山、頑張って読みます。それで、文月先生が贋作を書いて読み上げる姿を、沢山見ていたいです」
「そうか。だが、今回は危ないから駄目だ」
「えーっ、ケチ! 先生だって危ないじゃないですか! だから私が先生の左腕になろうと――」
思ったのに、と言い切る前に、七瀬は唇を結んでいた。気付けば、文月の右手が頭の上にある。撫でることに慣れていないような、ほとんどと言っていいほど力の込められていない手が、軽く頭を擦って離れていった。
「俺には御厨という……盾、というか、壁に近い奴がいる。だから心配するな」
心地良い風に流されて行く文月の声に、七瀬は下を向いて、頬を膨らませた。
(一)
書川橋を渡って七瀬を家に送り届け、再び橋に向かおうとした文月は、橋から川を眺めている御厨に溜息を吐き出した。
「それで、君は何故尾行の真似事をしたんだ?」
「師匠と弟子を二人きりにしてやった方が良いかと思ったんだが、余計なことだったか?」
「別に師匠では……まぁいい。聞き込みに行くぞ。自称情報屋である君が、不甲斐無いことに仕事を怠っているようだからな」
「俺だって忙しい時は忙しいんだよ」
川のせせらぎに靴音を響かせ、文月は石橋を通って行く。そんな彼を追いかけた御厨は、彼の右手をちらと見やった。
「なあ、文月」
「なんだ?」
「……あー、いや、やっぱりいい」
珍しく、静かな声音で口を閉ざした御厨に、文月は眉根を寄せた。御厨を後目に見ると、彼は悩むような顰め面を正面に据えている。文月の視線に気付いていないのか、進行方向だけ凝視する彼の黒目は動かない。
黒いブーツで煉瓦の歩道を踏みつけると、文月はようやく御厨の視線をこちらに向けさせた。言葉や声で、ではなく、彼の横腹に軽く肘を打ちつけることで、だ。
「いっ……てぇな、なんだよいきなり!」
「少しぶつけた程度でそれほど怒るな」
「いきなり攻撃されたら誰だってキレるだろ!」
「それは、分かるな。君だって、俺が真作に敬意を示す一礼を終えた際、後頭部を殴ってきたじゃないか」
「それはお前が、声を掛けても気付かなかったからだって言ったじゃねぇか!」
お相子だ、と小さく返した文月は、御厨の革靴を踏む勢いで彼との距離を詰める。吃驚しているような彼の顔を、文月は鋭さを帯びた瞳で見上げた。
「君が何に悩んでいるかは知らないが、あまり無理をするな。先程言いかけたことは、言いたくなったら、ちゃんと言ってくれ」
「…………ああ」