山月記の夜に3
綴者は患者が聖譚病になった原因の書物――聖譚の贋作を書き、それを患者に読み聞かせなければならない。患者が寝たきりであるから、読み聞かせることは容易に出来ていたが、動き回り、ましてや殺傷事件を起こしている患者に贋作を最後まで聞かせるのは、非常に難しいだろう。
文月は、深閑とした室内に薄れ行くコーヒーの湯気を黙って眺めていたが、思考の整理がついたのか、問いを投げた。
「その患者の身元や、普段どこにいるかは分かっているのか? いつ頃人を襲っているかの情報も欲しい」
「身元はまだ調査中、どこにいるかは不明。被害者が襲われているのは深夜から早朝が多いみたいだ。深夜徘徊している学生や、仕事帰りの大人、新聞配達員等と、被害者に共通点はない」
「場所は共通しているのか?」
「書川橋の手前――俺の店とかお前の家がある、こっち側だな」
書川町は、東側と西側の中間、といっても少し西寄りに、橋が三つある。北から南へ流れる書川を、横目に見ながら渡ることの出来る石橋だ。文月は背もたれに寄りかかって、顎に手を添えた。
「どの通りの橋だ」
「三つ全てみたいだぜ。郵便局の通りも、俺の店がある通りも、花屋がある通りでも被害が出てる。日によって違う通りみてぇだが、どの通りをどの日に襲っているか、みたいな規則性はない。ただ、あの付近にいるのは確かだな。お前の周りじゃ被害は出てないだろ?」
「ああ。橋の東側だけか? 西側には?」
「西側は今のところ大丈夫だ」
ほっとしたような息をコーヒーの中に溶かし、文月は空になったカップをテーブルに置いた。彼が胸を撫で下ろしたのは、七瀬を心配していたからだ。七瀬の家は橋を西側へ渡ってすぐの所にある。
文月が西側はどうかと聞いてきた時点で、その問いの根源に彼女の存在があることを見抜いていた御厨は、微笑ましいと言わんばかりに唇を湾曲させていた。茶に近い黒目を上げた文月が彼の笑みを捉えて、不服そうに口元を歪める。幾許か低くなった声を、その隙間から吐き出した。
「それで、患者の聖譚はなんだ?」
「少し朗読を聞いただけだから、題名とかは分からねぇ」
「君が聞いた朗読はどんなものだった?」
「うろ覚えだが……己の玉にあらざることを恐れるが故に、敢えて、こ……コックして? えーっと、だな」
「……敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった――君が聞いた部分はこれか?」
これまで聖譚病患者の情報を口にした際、文月が題名を当てられなかったことはない。そこから、彼が多くの作品を知っていることを御厨は理解していたが、まさか文章まで諳んじることが出来るなど、思ってもいなかった。
瞼を持ち上げて驚きを示している御厨は、首肯してみせた。
「知ってるんだな?」
「少し待て。今思い出している」
「あ、ああ」
冷めてしまったコーヒーを飲みながら文月を待っていると、彼はぶつぶつと何かを呟き始める。声は小さく、言葉は早く紡がれていく為、傍にいる御厨でも何を言っているのか上手く聞き取れなかった。ようやく聞き取れた「虎だったのだ」という一言に、御厨は思わずその名詞を反芻した。
「虎?」
御厨が声を発したからか、それともそこで思い当たる名があったのか、文月は独白を停止して、御厨を正視した。
「中島敦の山月記だ」
「虎の話なのか? 我輩は猫である、みたいな」
「元は人間だった李徴が、気付いた時には虎になっていたんだ。人食い虎とも呼ばれるようになった彼は、友人である袁傪に再会する。李徴は自分の身に起こったことを袁傪に話した。虎になった李徴が人の心を取り戻し、人の言葉を話せるのは一日に数時間だけだ。人の心を次第に失って行くことを恐れながらも、何も思わなくなったほうが幸せだろうと語る彼の葛藤が、とても人間らしく描かれている。詩人として名声を博するつもりだった彼は、人の心が残っている証にと、まだ人で居られる内に、自身の詩を伝録してもらいたいと袁傪に頼んで、詩を詠んだ」
思い出しながら語っている文月に、御厨は相槌を打つ。半分にも満たない量のコーヒーを見つめて、カップを傾けたり揺らしたりしている御厨から、作品への興味はあまり感じられない。けれども彼の耳は、文月の話をしかと聞き留めていた。
「それから李徴は、自分がこうなったのは臆病な自尊心と尊大な羞恥心が原因であり、それらが胸の内に飼っている猛獣であったこと、そしてそれが、自身を内面に相応しい姿に変えてしまったことを自嘲的に語る。やがてすぐに、彼が虎に戻らねばならない時がやってきて、李徴は最後に、妻子のことを袁傪に頼んだ。虎になったことなどは伝えず、自分を死んだと伝えて、妻子が飢え死ぬことなどないよう計らってくれと」
「頼み事多いな」
「君は多いと感じたのか。俺には、最小限に留めたように思えた。もし自分が人ではなくなると分かった時、李徴よりも多くの頼みを口にする人間はきっと多いだろう」
「というか長いな。まだあるのか?」
思っていたことを口に出し、文月の顔色を窺ってから、御厨は口端を引き攣らせた。彼は作品について語ることを楽しく思っていたのだろう。こういった時にしか見られないくらいの綺麗な微笑が、御厨の一言で固まっていた。
太陽が雲に隠された時みたく、容易に分かる程、彼の顔に陰が差す。御厨は、今し方の笑みが目の錯覚だったのではと疑ってしまう。彼が表情を無くして遠くを見るような目をしていることに、微かな申し訳なさが御厨の胸を巡った。
「君が飽きてきたようだからこのくらいにしておこう。……そういえば、作中で李徴は、自分が人間であったのなら、妻子のことを先に頼むべきだったのだと口にするが」
明らかに声のトーンを落としているのは、意図的ではないのだろう。それでもまだ饒舌に語る彼へ、「このくらいにするんじゃなかったのか」と口を挟みそうになって、御厨はコーヒーのカップを唇に押し付けた。余計な一言をコーヒーと共に嚥下している内にも、彼は話を続けていた。
「俺は、彼が人間であるからこそ自身の頼みを先に口に出してしまったのだと思えた。それでもそのことを後悔して自嘲する彼は、どこまでも人間らしかった。――っと……済まない。少し延びたのは許してくれ」
文月はトレンチコートのポケットから腕時計を取り出し、文字盤をじっと見つめる。上げられた彼の瞳は、御厨よりも後方を映していた。居間へ続く廊下に背を向けている本棚。そこに、立ち上がった彼は声を掛けた。
「七瀬、君を家まで送る。それと……そんな所に座り込むな。あまり掃除をしていないから、汚れるぞ」




