山月記の夜に2
「あの、御厨さん。ずっと気になってて、でも本人に聞くのもどうかなって思って、御厨さんだけに聞こうかと思っていたんですけど」
「あ、あー……なんだ? 文月の話か?」
「文月先生、左腕ってどうしたんですか?」
問われて、御厨は文月の、歩く度にひらひらと揺れる左袖を想起する。それから目の前の七瀬をじっと見た。彼女がこんな問いをしているのは、左腕がない彼を嫌だと思っているわけでも、彼の身に起こった不幸を嘲笑したいわけでも、純粋な疑問でもないのだろう。彼をただ単に心配しているような顔に幼さはなく、大人びてもおらず年相応で、御厨の表情を綻ばせた。
「事故で失くしたらしいぜ。初対面時には既に無かったから、綴者になる前だろうな。元々左利きだったらしくて、字を書けるようになるまですげぇ苦労したみてぇだ」
「そう、なんですか……。片腕が無いって、大変ですよね」
「そりゃそうだろ。つーか俺はてっきり、文月の好みのタイプとかを聞かれるのかと思ってたんだけどなぁ」
「えっ? 文月先生って、人を好きになるんですか?」
「――何の話をしているかと思えば……当たり前だろう。君のことも御厨のことも嫌いではない」
凹凸の無いデザインのアタッシュケースを手にした文月が、心底つまらなさそうに目を細めて、廊下から御厨達のもとへ歩いてきた。
思い出したように木製の椅子を引いて座った御厨へ微笑を向けてから、文月は彼の向かい側に腰掛けようとしたものの、七瀬に気遣うような視線を送る。座るか、と尋ねている切れ長の目の奥に、彼女はその問いを見つけられなかったようだ。文月が立ったままであることなど気に留めず、先刻の話を引き摺った。
「あの、そうではなくて、恋愛感情? みたいな好きは、やっぱりないですよね」
「……以前恋い慕った女性がいたが……彼女は、きっと素敵な家庭を築いているのだろうな」
「えっと、つまり、失恋したんですか?」
「まぁ……いや、こんな話はどうでも良い。御厨、君の話を聞かせてくれ」
「えーっ、文月先生の恋バナの途中なのに」
七瀬は口を尖らせて、立ち並ぶ本棚の奥へ去ってしまう。彼女が通り過ぎた本棚は、廊下側のものではなく、台所がある方だ。
この家は本棚ばかりが室内の殆どを占めている為、台所や居間などは、本棚の奥に追いやられている。玄関から入って右手側に階段があり、左手側に正面へ真っ直ぐ伸びる廊下がある。廊下を歩きながら左右を見れば、沢山の本の背表紙と向かい合うことになる配置だ。その先の部屋は、右手奥の出窓の傍にテーブルが一台、椅子が二脚。それだけしか置かれていない。左手側にはまた本棚がいくつもあり、その裏側に台所が備えられていて、更に奥へ行けば居間がある。
七瀬はここに来るようになってから、文月が居間にいるところを見たことが無い。彼はいつも窓から差し込む自然光を浴びながら、ひたすらガラスペンを動かしたり、読書をしたりしている。内装の造りも相俟ってか、彼が原稿用紙と向き合っている姿は絵になるな、と七瀬は密かに思っていた。
「それにしても、七瀬を治したばかりだというのに、今年はもう二人目か」
「感染症とか季節病じゃねぇんだから、いつ何人発症するか分からねぇもんな。もしかしたら、今年はこの頻度で患者が出るかもしれないぜ」
「同時に数人の患者が出た場合は困るな……流石に二人分の贋作を平行して書くのは難しい」
「仕事が増えるの嫌だなとか思わないあたり、流石って感じだ。文月センセイ」
「聖譚病が寝たきりになるなどの症状を起こさないのなら、喜ばしいことだがな。本を読む人間が少なくなっている世の中で、自身と登場人物を重ねて物語に入り込んでしまうくらい、書物に感銘を受ける……というのは」
文月と御厨の会話を聞きながら、二人分のブラックコーヒーを淹れて、七瀬はカップを片手に一つずつ持ち、二人のいる部屋に戻る。
先程まで文月の原稿が置かれていたテーブルは、すっかり空いていた。これから出掛けることを考えて、片付けたのだろう。七瀬はコーヒーを零さないようにそっと、二人の前へカップを置いた。
「ありがとう、七瀬。生憎椅子が二脚しかないんだ。話が終わるまで、居間にあるソファを使って休んでいてくれ」
一度七瀬を見ただけで、それからは御厨の方に視線を戻した彼に淡々と告げられ、七瀬は少し不服そうに唇を曲げる。綴者と患者の関係であった時はほぼ常に向けられていた、彼の微笑。あの関係が無くなってから、彼はあまり笑わなくなった。七瀬はそれに、ほんの少し、寂しさに近しい感情を抱いていた。
立ったまま二人の話を聞いていようかとも思ったが、文月がそんなことを許さないはずだ。だから七瀬は、台所の方に向かい、本棚の裏側に背を預けて床に座り込んだ。
七瀬が去ったのを見送ると、文月は「さて」とカップに口付けた。熱いコーヒーを喉に通し、真剣な眼を御厨へ向ける。置かれたカップと机が木琴の音色に似た音を鳴らした。
「聖譚病と、書川町の連続殺傷事件は、どう関わっている?」
「事件の犯人が聖譚病患者だ」
「……待て、聖譚病の者が動き回って、人を傷付け殺めていると言いたいのか?」
「ああ。言っておくが事実だぜ。風の噂とかじゃなくてな。犯人の朗読をこの耳で聴いたんだ」
珍しく御厨が笑みを浮かべていない。それが彼の真剣さを語っている。文月は反射的に、そんなことがあるはずがない、と返そうとした自身を咎めるべく唇を噛んだ。綴者を志したばかりの頃、綴者や聖譚病に関して調べていた時の記憶を漁る。それでも、寝たきりではない聖譚病患者の記述など見たことが無かった。
自身が治してきた患者のことも一人一人思い出していき、ふと文月の耳に蘇ったのは、七瀬の言葉だ。夢を見ていた。その言葉で、文月は自身がかつて聖譚病に罹っていた時の記憶を辿る。僅かに開いた唇から、嗚呼、と息が漏れた。
「そうか、聖譚病患者は眠っている。だとすれば……患者が睡眠時遊行症に罹っていた場合、その症状も現れる、のか」
「睡眠時……なんだって?」
「聞いたことがないか? 夢遊病や夢中遊行症とも言われている。眠っている間、無意識下で歩き回ったりする病だ。大人がこの病に悩まされているのはあまり聞かないな。そして幼い子供が聖譚病に罹ることは滅多に無い。だから今回のような、歩き回る聖譚病患者はごく稀だろう」
「夢遊病の聖譚病患者、か……」
眉を顰めて文月を見てみれば、彼も御厨と同じように顔を顰めていた。「厄介だな」というとても小さな独り言は、彼の心から溢れたものと思われる。