辿るは夢十夜1
白藍で染まった細長い硝子の中に、真白な待雪草が咲いている。そんな風に見て取れるガラスペンを、文月八尋は気に入っていた。
インクの染み込んだ穂先は首軸に向けて美しい曲線を描く。無色と黒で生み出される湾曲した縞模様が、出窓から差し込む陽光で、晴れ空の下の湖面みたいに煌いた。何十回何百回と目にしても美しい造型は、文月の口元に薄らと繊月を浮かべさせた。木製の丸テーブルに置かれた原稿用紙に、文月はそっと穂先を滑らせて行く。
頭の中に広がる物語を紙上に書き連ねてはペンを置き、出窓に近い右手側へ置かれたカップを手にする。程良い苦味と仄かな酸味が口内に広がって、乾いた喉が潤った。
コーヒーの香りが漂う、古風な洋館じみた室内。時計の針の音だけが響く中で、朝から趣味に励む。それは文月にとって最も心休まる時間だ。
三年前に二十を超えたものの、まだ学生として通ってしまいそうな顔立ちに笑みを携えている文月だが、数刻後には端正な顰め面を作り上げていた。
というのも、玄関の扉に掛けられた鈴が来客を知らせたからだ。窓の傍に置かれた椅子とテーブル以外、本棚しかないのでは、と思う程、見回しても本棚だけが視界に入るこの場所で、文月はその棚の隙間を睨むように見据えた。
壁や照明までアンティーク調で揃えた、どこか気品漂うこの場に、大きな足音が遠慮なく響いてくる。来訪者は、本棚に挟まれた廊下を越えるや否や、明朗快活であることを主張するような声を上げた。
「よっ。また売れない本を書いてんのか?」
「五月蝿い。執筆の邪魔だ。油を売るなら外に行け。帰れ御厨」
「おいおい、仕事のお知らせに来てやったってのに、酷くね?」
不満を呈した御厨へ、文月もまた不平を並べようと開口するも、一度唇を閉じてから頬杖を突く。左袖は床に向けて下げたまま、顎で向かい側の空席を示した。御厨は満足げに数歩進んで、飛び乗るように腰掛けると足を組んだ。
御厨九重という彼の名は、この書川町で知らない人はほとんどいないくらい有名だ。町で一番お洒落な服飾屋を営んでいるかと思えば、神出鬼没でどこにでも現れ、町内の様々な情報を入手している。
「患者が出たぜ、センセイ。とっとと行って贋作を書いてやりな」
金に染めた髪を弄りながら話し始めた御厨の、相も変わらぬ派手な身なりに、文月は眉を寄せる。右耳にかけた髪を三本のアメリカピンで留めているが、英数字の九になるように付けるのが彼なりのこだわりのようだ。身なりに関して口を出せば、センスが無いと長々言い返されることを知っている為、文月は問いだけを口に出した。
「患者の居場所と、聖譚を教えてくれ」
立ち上がった文月は御厨の背中側にある本棚を通り過ぎ、持って行ったガラスペンを唇で咥えてから、棚裏に備えられている流し台の蛇口を捻った。流れ出た水でペンを洗い、再びペンを咥えて水を止め、黒いトレンチコートのポケットから取り出したハンカチで雫を拭う。
御厨はグレーのスーツの胸ポケットから、小さく折りたたまれた地図を取り出して、それを広げていた。席の方へ戻って来た文月は、御厨が指差す地点をちらと覗き込んだ後、すぐに廊下の方へ歩み出す。遠ざかって行く背中が御厨に声を張れと言っている。普段から大声で話すことが多い彼にとって、それは苦ではない要求であった。
「場所は俺が案内するさ。患者が聖譚病を発症させた原因になったのは、どうやら夢十夜っていう本らしいが……生憎俺は書物の方の情報はあんまり持ってない。だからどんな話かは分からねぇ」
「安心しろ、その作品なら俺が知っている。初めから君にそういった知識を求めていないさ」
「ああそうかよ。んで、どういう話なんだ?」
「『こんな夢を見た』という一文から始まる、比較的短い話が十編書かれた、夏目漱石の小説だ。第何夜に胸を打たれて聖譚病を発症させたのか、まで聞きたいところだが、そこまでは知らないんだろう?」
廊下を進んだ先で玄関に背を向け、階段を上りながら、文月も声を張って返す。二階の玄関側には柵が取り付けられており、その反対には部屋に繋がる扉がいくつかあるが、文月の向かう先は室内ではない。扉をどれも素通りして、行き止まりとなった場所に置かれているアタッシュケースを右手で掴み、革靴の音を響かせた。
階段を下る音が聞こえたからか、ようやく御厨の声が返ってくる。
「ああ、そこまでは知らねぇ。悪いな」
「…………おい、それは俺のコーヒーだ。勝手に飲むな」
鞄を手にしただけで戻って来た文月に目をやり、御厨は空になったカップをテーブルに置き直すと、長い溜息を吐き出す。目の前に立つ文月の爪先から頭の先までを呆れたような目で眺める御厨。
第二ボタンまで開けられている立て襟の白いシャツに、紺の袴を履いて、サイズの大きいコートを着ている文月のセンスが、服飾屋である御厨の表情を歪めていた。このご時世、普段着として袴を履く者など滅多にいないだろう。時代錯誤にも思える彼の格好へ嘆声を投げると、御厨は薄い桃色をしたストライプシャツの上で、紫のネクタイを軽く緩めた。
「なあ文月、何度も言うけどよ。お前はお洒落だと思ってその服装をしているのかもしれねぇが、俺とか端から見たら奇抜な格好だし変人じみてるぜ。着替えなくて良いのか」
「……君はどうやら同じ会話を繰り返すのが好きなようだな。俺は何度も同じ話をするのを好まないから黙っていたが、仕方がないから言わせてもらおう。奇抜で変人じみている、なんて君にだけは言われたくない」
文月がこういった仕事として外に赴く際、毎度交わされるやり取り。互いに納得がいかないと零しそうな表情で見合って数秒、先に顔を逸らし、支度を再開したのは文月の方だ。
開かれたアタッシュケースの中から大量の原稿用紙と数個のインク瓶が顔を出す。それらのせいか端に追いやられた長方形の箱を、文月は引っ張り出した。ガラスペンを箱に仕舞い込み、元の位置にそれを収めたら、すぐに鞄を閉めて御厨を一瞥した。
「行こう。聖譚病患者のもとへ案内してくれ」
「はーいよ」