第九十七話 譲れない気持ち
高い山々の山頂から、雪を抱えて降りてきた風が手放す寒さが、気持ちがよいと思える程に、日差しが暖かい。
空の青さが衣を一枚脱ぎ捨てたように、海もその色を優しく変える。
春の日差しだけが入る拠点の執務室で、ジュンはメンバーからの報告書を見ながら、話を聞いていた。
「ワト、ゼクセン国のこの領主は本気なの?」
「本気っすね。正気じゃないっすけど。領民の多くは、秋の間に準備をして、冬の間に逃げ出したっす。自領の警備兵が、領民の逃亡に手を貸しているっす。末期っすね」
「狙いは何? 謀反?」
「ゼクセンからの独立っす。国民になるはずの領民は、逃げているっすけど」
「ありがとう、ワト。これだけ証拠があれば、自国で対処できるね」
ジュンはワトの報告書にサインをして、横にいるコラードに手渡した。
仕事中は入室しないカリーナに代わって、お茶の用意をしていたセレーナが、配り終えてから、思い出したかのように小さく笑った。
「何か良い事でもありましたか?」
コラードが書類から視線を外さずに尋ねる。
「主が、地域に根付いている妖精の話があったら、知りたいと言っていたでしょ?」
「確かに、おっしゃっていましたね」
ジュンはミゲルとシルキーとで、遺跡に行ってから、妖精の事を調べていた。仕事の合間に図書館などにも行ってみたが、絵本以外の妖精の情報はなかったのである。
そこで、シルキーの仲間探しという名目で、地域に伝わる妖精の話を、仕事の合間にでも聞いたら教えてほしいと、メンバーに頼んでいたのだ。
「子供たちが土の妖精の洞穴があるって言うのよ。それも砂漠によ? 一応見に行ったわよ」
「どうだったの?」
ジュンはセレーナに話の続きを促した。
「小さな洞窟の床一面にアントン落としがあったわよ」
「アントン落とし……」
ちなみに、アントン落としとはアリ地獄のような物ではあるが、中に居るのは、ウスバカゲロウの幼虫ではなく、食虫の魔物である。人や動物系の魔物には無害ではあるが、見た目が良くないせいで嫌われている。
「でもカブラタの砂漠では昔から、アントン落としを土の妖精の住み処と言うらしいわよ。砂なのになぜかしら?」
「なるほど砂ねぇ。土の妖精って土を良くしてくれるのかと思っていたけど、それは人間の都合かもね」
「ウチらは、シルキーちゃんがいるから、妖精を疑っていないけれど、普通は絵本でしか知らないわよね。でも、絵本はなぜ妖精の姿を知っているのかしら」
「確かに絵本には、いろいろな妖精が描かれているよね。昔の書物の挿絵も今とあまり違わないから、身近にいたのかもしれないね」
大の大人が妖精の話をしている姿は、そうどこでも見られる光景ではないが、拠点にはシルキーがいるので、夢物語の話にはならない。
メンバーは見た目のかわいいその妖精に、日々お世話になっているのだから、親戚がいるのなら、合わせてやりたいと思っているようである。
ジュンはかつて妖精の居た場所に、妖精の霊がいる可能性があると思っているようである。それは、おそらく彼がスプリガンと出会っているからであろうが、そのような話や事件の記録はなく、なんとも先の見えない話である。
その日の夜。
ジュンとミゲルは、コラードを伴って、モーリス本邸に来ていた。
ジェンナとアンドリュー夫婦に挨拶をして、一番年若いジュンは、最後に腰を掛けた。
ジーノのいれたお茶を、コラードがテーブルに並べていた。
仕事の話の後で、ジェンナが真顔でジュンを見た。
「ジュン、慎重に答えてもらいたいのだが」
「はい。何かあったのでしょうか?」
ジュンはいつもと様子が違う、アンドリュー夫婦を見て聞いた。
「ジュン、アンドリューの娘のクレアを、どう思っているんだい?」
ジェンナの唐突な質問に、ジュンは眉間にシワを寄せて、少し考えているようだったが、やがて大きなため息をついた。
「慎重に、一生懸命に考えましたけど。やはり大好きですね。一番大切な人です。進級が決まったら、来年の卒業を待って、結婚する許可をいただきにあがろうかと思っていました」
ジュンの言葉にジェンナは一つうなずいた。
「アンドリュー、アリソン。聞いた通りだ。納得したかねぇ」
ジェンナは、ジュンがクレアをダンジョンで保護した映像を、共に見ていた息子が、その気持ちを疑っているようで、少し面白くなかったようである。
「お義母さま。私はクレアから聞いていましたから、信じていましたよ。二人は気持ちを確かめあって、その上でジュンさんは、ちゃんと手順を踏もうとしていた事を、私は嬉しく思っていましたから」
そう言うと不服そうな視線を、夫であるアンドリューに向けた。
「俺だって反対している訳じゃない。ただ、親としては仕方がないだろう。クレアには泣かれるわ、息子たちは怒りだすわで、本当にもう勘弁してくれ」
アンドリューの言葉に、ジュンは静かに尋ねた。
「泣かせたんですか?」
「クレアに縁談がきたからねぇ。まぁ年齢からいっても不思議じゃあないねぇ。息子が慌てたのは、相手が王家だからだよ。案外気が小さいねぇ」
ジェンナは小さく笑って、ジュンに言った。
「縁談ですか。クレアはなんと?」
ジュンの問いに答えたのは、アリソンである。
「絶対に嫌だと言って、泣いていたわよ。息子たちも、なぜその場で断らなかったのかと、それは怒っていましたよ。二人の気持ちは二年も前から知っていましたからね」
「クレアは今どこにいるんでしょうか? コンバルですか?」
心配そうに尋ねるジュンに、アンドリューが答えた。
「この家にいる。もし、ジュンにその気がなかったら、あれを傷付ける事になるからな」
そこで一人、茶菓子を楽しんでいたミゲルが、アンドリューを見据えた。
「クレアを傷付けたのは、アンドリュー、お主じゃ。かわいそうにのぉ。ブドウのような目から涙が、第一発酵の肌に流れたのかのぉ。うどんじゃったかのぉ」
ミゲルの言葉にジェンナが首をかしげる。
「ブドウ? 第一発酵とは何のことかねぇ?」
楽しそうにしているミゲルの横で、平然としているジュンを見て、コラードは堪えきれなくなったのだろう、とうとう背を向けて肩を揺らした。
「ジーノ、クレアをここに、連れてきてはもらえんかのぉ。ジュン、好物を最後に食べる時は、気をつけるのじゃよ。誰かに取られる事もあるからのぉ。どうやら金のフォークが伸びて来たようじゃ。くれてやるのかのぉ」
ミゲルはそう言うと、少し意地の悪い顔をして笑った。
「いいえ。この気持ちだけは譲れません」
きっぱりと答えたジュンに、アリソンが笑顔を向けた。
ジーノが扉を開け、クレアが部屋に入って来た。
まるで、裁きを受ける犯罪者のように、顔を伏せて肩を落としているその姿を見たジュンが、クレアに駆け寄った。
「クレア」
「ジュン様!」
クレアに飛び込まれ、思わず抱きしめてしまったのは、不可抗力である。
「悲しい思いをさせてごめん。僕がもっと早く行動していれば良かったね」
「いいえ。ジュン様は約束を違えない方だと、信じていました」
「そう。僕の気持ちは変わらない。クレアは?」
「はい。私も変わってはいません」
ジュンはその言葉を聞くと、皆のいる場所まで移動した。
「アンドリューさん、アリソンさん。本来であれば、日を改めてお伺いするべきですが、このような状況ですので、すみません。クレアさんとの結婚のお許しをいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
頭を下げるジュンの横で、嬉しそうに涙を零す娘を見て、アンドリューは切なげな笑みを浮かべてジュンに告げる。
「クレアは俺たちの大事な宝なんだ。よろしく頼むよ」
ジュンはアンドリューの顔を見て、真剣な顔でうなずく。
「ありがとうございます。幸せな家庭を作ります」
クレアは涙を拭いながら、アンドリューに笑顔を向けた。
「父様、ありがとうございます」
(あれ? そう言えばプロポーズの返事は、アンドリューさんと、カミルさんの剣を受けなければならなかったはず……。面倒だから、黙っていよう)
「それにしても、ゼクセン国の第三王子オーウェン・エスカランテとはまた、随分な男に見初められたものだねぇ」
ジェンナの言葉に、クレアは困った顔で言った。
「高等学校の一学年上の方です。自治会の会長をされていて、幾度かお手伝いをしました。自治会は王族と貴族の家柄の方以外は入れませんので、特に親しくさせていただいた事はありません」
「ミゲル様、王族へ平民の家から嫁ぐ事って、あるのですか?」
「一夫多妻の国ではたまにあるようじゃが。あまり聞かないのぉ。王妃になった歴史もないじゃろう。王家から嫁いで来たのは初代の嫁だけじゃな」
ミゲルはジュンの質問に、淡々と答えた。
「な、なぜ私なんかを……」
孫娘であるクレアを見て、ジェンナは小さく息を吐いた。
「オーウェン王子がクレアを気に入ったのは確かだろうよ。ただ、親族はモーリス家から嫁を迎えたかったんだろうねぇ。成人前はクレアもモーリス家だからねぇ。さもなければ、有力貴族のご令嬢との婚約を、反故にはしないだろうねぇ」
「ひどい……」
ジェンナの話を聞いて、クレアは令嬢の心配をしたようである。
「コラード、書類を作る」
ミゲルは面白くなさそうな顔を、隠そうともせずに告げた。
「こちらに、整えてございます」
コラードは当然のように、ミゲルの前に書類作成に必要な物を並べた。
ミゲルが手際良く書いた物は、婚約の承認書である。
平民は書く事はないが、王族や貴族はその約束を王が承認する。無論、約束を違える事は許されない。
ギルド島は、モーリス家の当主がその任を担っている。
「儂がジュンの保護者じゃ。アンドリューはここに、クレアの親のサインじゃ。ジェンナは承認のサインじゃのぉ。これで手がだせまい。あのゼクセン国のエスカランテは、しつこいからのぉ」
ミゲルの言葉に全員が首をかしげた。
「すまないねぇ。私も若いころ先代の王弟に追いかけられてねぇ」
ジェンナの爆弾発言に、皆が固まった。
「お義母様が?」
誰もが声にしなかった思いを、アリスンが口にする。
「私も昔は若かったんだよ。ミゲル様があまりのしつこさに怒って、城の横に大きな穴をあけて、水を張ったんだよ。あまりの早さに誰も動けなくてね。‘次はどこに池が欲しい’って言ったら、静かになったねぇ」
「「「ミゲル様……」」」
アンドリュー夫婦とクレアは、あきれたようにミゲルを見た。
「クレアに手を出したら、湖にしないといけませんね?」
ジュンの言葉に、ミゲルはニヤリと笑った。
「そうじゃのぉ。同じ大きさじゃと、仕置きにならんからのぉ」
ゼクセン国の王族は過去の戒めを、しっかりと伝えていた。
しかし、血は争えないと、その後、ジュンは知る事になるのである。




