第九十三話 地底湖
「水? しまった!」
それはまるで、その時を待っていたかのように、息をする余裕も与えず、二人を飲み込んだ。
一瞬、意識を飛ばしそうになったジュンは、奥歯をかみ締めているのだろうか、顔をゆがめ、水中で何とか耐えていた。
洞窟の天井をなめるように、吹き出した水は、すぐに水位を下げた。
二人が足場に何とかとどまる事ができたのは、レオを心配して塞いだ空間魔法のお陰だった。
水圧で壁に打ち付けられ、しばらく水に漬かったせいで、二人は放心状態で座っている。
「死ぬかと思ったな。大丈夫か?」
正面を見たまま、レオは力なく聞いた。
「うん。なんか全ての幸運を、使い果たした気がするよ」
ジュンは疲れた顔で、そう答えた。
日も差さない洞窟で、ぬれた衣服は体温を急激に下げる。
水位はかなり下がったが、落ち着くのに時間が掛かりそうなので、二人は、足場に石ころを置き、テントに入る事にしたようである。
「壁に打ち付けられた打撲もあるけど、擦り傷がひどいね」
ジュンは風呂に入る前のレオに、治療魔法を掛けた。
「ありがとうな。自分にも掛けろよ。至る所で血がにじんでいる」
レオが風呂に向かうと、ジュンは自分を治療した。
「あぁ、そうだ。あれを使おう」
ジュンはテントを出てから、石ころを以前の穴あきカバンに入れ、倉庫にある鉄の塊を出して縛り付けた。
「どうしたんだ、これ?」
風呂から上がったレオは、窓を見て聞いた。
「水位や流れが見えるでしょ? ちょっと細工をしたんだ」
少し得意気なジュンを見て、レオは首をかしげる。
「何か、不気味だよな」
足場から、下をのぞいているかのように見える窓の景色は、確かに、魔導具の明かりに照らされて黒い生き物が、うごめいているかのように見えていた。
風呂から上がったジュンに、レオが言った。
「体も温まって、乾いた服が着られるのは、ありがたいよなぁ。テントがなければ、あそこで震えて待つしかなかったよ」
「ついでに、食べ物もあるしね。好きでしょ?」
そう言いながら、ジュンがレオの前に出したのは、タップリのチーズが溶けているピザだった。
「懐かしい! 大好物だぜ。城で作ってもらったんだが、別の代物になったんだ。まぁ、家族はそれでも喜んで食っていたがな」
水が引けるのに、丸一日を要した。それが、早いのか、遅いのかは不明だったが、取りあえず、二人は先に進む事にしたようである。
二人は広い空間で足を止めた。
「地底湖だな」
「うん、地底湖だね。洞窟を洗ったから、もっと濁っているかと思ったよ」
レオは足元の水を、手ですくってからジュンを見た。
「いや。十分汚れていると思うぜ。城で働いている、ラバーダ村の出身者の話だと、ここの水を飲んだら、水魔法や井戸の水は飲めないと言っていたからな」
「そんなにおいしい水なら、飲んでみたかったね」
真っ暗な洞窟にある地底湖の先には、光の届かない闇がある。
ここを通る事が、普通である住民がいるのだから、行く手を阻む敵がいるとは考えにくい。ただ、未知の森に踏み入れるよりなお、生き物のいない空間は人を不安にするようで、ジュンの表情は、緊張の色を隠せてはいない。
地底湖の水際に浅瀬はない。いきなり深くなるその場所に、舟を浮かべて乗り込むのにはコツが必要なようである。
ジュンはようやく乗り込んだ舟に、空の酒樽を出した。
「なんだそれ?」
「深そうだからね。舟が沈んだ時に使えるでしょ?」
「心配性だな。まぁ、それで助けられている俺には、言う事もないが」
レオがオールを握ってこぎ出した。波すらない湖面は鏡のように静かで、オールが作る波紋だけが、暗闇に溶けて消えて行く。
どの位、時間がたっただろう。手こぎの舟の速さが、景色のない暗闇では、想像がつかない。
ジュンにオールを渡さずに頑張るレオに、果実水や、クッキーを渡していた時である。
「レオ! 前を見て!」
「すげぇな……」
天井にあいた穴から、太陽の光の太い束が、地底湖を貫いている。
レオはその光に、導かれてでもいるかのように、舟をこぎ出した。
そこでジュンは再び、驚きの声を上げる。
「青い! レオ、真っ青だ」
太陽の光の元に、地底湖はその姿をさらした。
「あぁ……。青い」
ジュンはその水を口に含んで、飲み込んだ。
「味見のつもりだったのに……。もっと飲みたくなる」
「あぁ……。あ?! 飲んだのか?!」
「うん。おなかを壊しても後悔しない味だった」
レオはしばらく水を凝視してから、おもむろにそれを口にした。
「うまい……。水にうまさがあるんだな」
(水魔法の水も井戸の水も、この世界の水はきっと少し硬いのかもしれない。この地底湖の水は日本で飲んでいた水とよく似ている)
光を抜けてしばらく進んだ先で地底湖は狭くなり、今度は正面に光が見えた。
「あれが岩だね?」
振り向いてレオがうなずく。
「そのようだ。どうやって壊す気だ?」
「うん……。壊すのは、いつでもできると思うんだ。ねぇ。あの光の穴から出てみようよ。近くだしね。気になることがある」
レオは少し考えてから、ジュンを見た。
「ジュンが気になると言って、気のせいだった事はないからな。分かった戻ろう」
光の差し込む穴まで、階段を作り、舟を回収してから、外に出る。
出てきた場所は、少しいびつな楕円形の穴で、どうやら山の中腹にあるようだ。
ジュンはその辺りを観察しながら、レオと共に獣道すら無い山を下って行った。
「おぉ! 滝だ」
レオの言葉に、ジュンは凝視していた足元から視線を上げた。
「同じ山だったんだね。下に見えるのがラバーダ村だね」
山々に囲まれた小さな平地は、まるで緑の敷物の上に積み木があるようだった。
「三角の家だね」
「あぁ。煉瓦を運ぶのは無理だろう」
下に着くと、ジュンはまず滝を見に行った。
さほど多くはない水量の滝は、岩の山肌に沿うように落ちているので、滝つぼも深くはない。
滝の後ろにある穴が洞窟の入り口のようで、塞いでいる岩は、どうやら滝のどこからか落石した物のようである。
「おまえは誰だ!?」
「おまえこそ誰だ!?」
十歳ほどの少年の言葉に、レオが負けじと言い返した。
「レオ……。大人気ないよ」
ジュンはそう言うと、少年に話し掛けた。
「僕はジュン。村長にお会いしたいんだけど、案内してもらえるかい?」
「オレはログ。こいつは嫌だけど、おまえは気に入った。付いて来い」
「ありがとう」
横で文句を言いたそうなレオに、ジュンは少し笑って、ログの後に続いた。
一軒の家の前で、ログが声を張り上げる。
「爺、いるかぁ?! 爺、客だぞぉ!」
「聞こえておるわい。待っておれ」
ログは小さく笑った。
「待ってろって。オレはいくぞ。爺は口うるさいからな」
「ログ、ありがとう」
中から現れた村長であろう老人は、レオを見て慌てたように言った。
「レオナード殿下。このような所までおいでいただき、ありがとうございます」
「そのようなあいさつは、やめてくれ。支援物資を届けに来ただけだ」
村長の家に招き入れられてから、レオはジュンを紹介した。
やはり越冬分の食料が不足していたらしく、村長の顔には安どの色が浮かんだ。
ジュンは先に、村長の夫人に案内されて、家の横にある倉庫に、支援物資を入れる事にした。
倉庫にあるのは、小麦粉が六袋だけだった。
「これは……」
ジュンの驚いた様子を見て、村長夫人は言った。
「驚かれたでしょう? 山を越えて運ぶのは、年寄りには無理なのです。村の畑は今年は実らなくて、山に仕掛けた罠に掛かる魔物だけが、頼りなのです。それぞれの家では、木の実やキノコなどを干して蓄えてはいますが、冬を越すほどの量ではありません」
「少し、聞かせてもらえませんか? 先程、ログと言う少年にも会いましたが、年配の方も多いのに、なぜ移転をされないのでしょう?」
「灰色熊族は、仲間を見捨てて逃げた熊族だからでしょう。この家は代々そう語りついできたのです。時代でしょうか、我が家の息子たちは、村を出て行きました。若者は村から出ると戻ってはきません」
「逃げたって……。そんな昔の話を、いまだに言う者がいるのでしょうか」
「村から出ないので、それは分かりません。ただ、主人はそう信じています」
「そうですか。不しつけな質問にお答えいただき、ありがとうございました」
ジュンはそのまま、散歩をすると伝え、一人で村を見て回った。
ログが駆け寄り、ジュンに笑顔を向ける。
「もう帰るのか?」
「いや。少し散歩をしていたんだ。良いところだね。秋なのに緑がいっぱいだ」
「見えるのは、オイアサの元株だけだから少ない。雪が降っても枯れないんだ。来年の春には、たくさんの芽がでるんだ。そうしたらオレも役に立つ」
「役に立つ?」
ジュンはログの言葉に首をかしげた。
「オレは大人ほど力がないんだ。罠も仕掛けに行けない。父ちゃんが地底湖にさらわれたから、母ちゃんと畑を耕して、オイアサを刈るんだ。オレは機織りもできないから、秋と冬は役立たずなんだ」
「この村の子供は皆そうだろう?」
伏せ目かちに話すログに、ジュンは何気なくそう言った。
「何言ってるんだ? 子供はオレだけだ。皆十二になったら学校に行く。オレは行かないけどな。母ちゃんは婆ちゃんがいるから、ここにいるんだ。母ちゃんは父ちゃんがいないから、オレが守るんだ」
「そうか。ログは偉いな。ログは洞窟の向こうへ行った事はあるかい?」
ジュンの言葉にログは肩を落とした。
「ない……。行かない。父ちゃんみたいに舟ごとさらわれたら、母ちゃんが泣く」
ジュンは自分の不用意な言葉で、ログを傷付けた事に息を飲んだ。
「ごめん。嫌な事を言ったね。少し座ろうか」
ジュンはあめの入った、小さな壺を出した。
「一緒に食べよう。嫌い?」
ログは首を振って、あめを口に入れると嬉しそうに目を細めた。
ログとしばらく話をして、ジュンは村長の家に戻った。
「ジュン。どこに行っていたんだ。あの岩をよける話をしていたんだ」
レオの横で、村長の顔色は優れない。
「村長。あなたはあの洞窟が、そろそろ危険である事に、気が付いていますよね?」
村長の返事の前に、レオは驚いたように目を見開いた。
「ジュン。それはどう言う事だ?」
ジュンは村長を見た。
「あの洞窟は石の山の下にある。長い年月をかけて育つ木の根や亀裂で、もろくなった石が落ちている。今回は入り口を塞いだけど、地底湖の天井の穴も、あれは古くはない。違いますか? 村長」
「……」
無言でうつむく村長にジュンは言った。
「ヘルネーの森に流れ着いた者や物は、落石に巻き込まれた舟でしょう? 移転するべきです。あの岩を僕が壊したら、また洞窟を人が通りますよね。悪いですが、この村に帰る事を楽しみにしている、友人がいるんです。彼にあの洞窟を使わせたくはありません」
ジュンの話を聞いて、レオは村長に聞いた。
「村長。どう言う事だ?」
「私たちの祖先はオイアサを育て、農耕をするだけで、他の熊族のように、狩りや戦が得意ではありませんでした。我が家は代々、領主の迫害から自分たちだけが逃げた事を、恥じて生きてきました。時代が変わり、この村の若者も外に目を向けるようになりました。他の熊族のように、自分の居場所を見つけて皆が去るまで、この村はここにあるべきなのです。あの洞窟が役目を終えるのと同じように」
「村長。オイアサを育て、農耕をするだけの人々がどこに住むんですか? 最低限オイアサが育つ場所が必要ですよね? そもそも祖先に失礼です」
ジュンの言葉に、村長は弾かれたように口を開いた。
「なんと?」
「立派な祖先の後を継いだ、少し思慮の浅い祖先が言った事を、き帳面に守ってどうするんですか? 迫害に苦しむ戦えない村人を守ったんですよ? 逃げたんじゃない。どうやって助けようかと悩み、計画を立て実行しなければ、あの洞窟は越えられなかった事でしょうね。一族をまとめて守った祖先を誇りに思わない、自分たちを恥じてください」
黙って一点を見つめる村長に、ジュンは再び語りかけた。
「若者は親が心配で、ここに帰りたくても、そんなに長い休みはとれないんですよ? 帰ってこない訳ではない。時代は変わっているんです。教育も治療も受ける事のできないこの村で、愛する妻や子供と暮らすのは難しいでしょうね。あなたは村長として祖先のように決断するべきです。灰色熊族を守るためにです。きつい事をいいますが、僕があの岩を取り除く時は、あなたが移転を決めた時です。僕は友人やログにあの洞窟を通れとは言えません」
「村長。俺はこれでも王家の人間だ。国民を危険な目に合わせるなど、王の耳に入ったら、ただじゃあ済まない。国が救済の手をいち早く差し伸べるのは、この村と村長を大切に思えばこそなんだ。国が守ろうとしている灰色熊族を、村長が見捨ててどうすんだよ」
レオの言葉に、村長はしばらくうなだれていたが、時間が欲しいと言って出かけて行った。
村人たちの話し合いは、すぐに結論がでたようで、村長はレオに付いて、城に行くことになった。もちろん、早急に移転する相談のためにである。
「ジュン。またな」
「うん。元気でね」
ログとジュンの会話に、レオが言った。
「俺には言わないのかよ」
「名前を知らないしな」
レオはニヤリと笑って言った。
「あぁ。ログ、俺はレオって言うんだ。またきていいか?」
「仕方がないなぁ。レオ、またこいよ」
ログは照れたようにそう言うと、そっぽを向いた。




