第五十六話 モーリス本邸
(モーリス家からモーリス家へ転移! ってね?)
ジュンがお気楽に転移をしたのは、コンバルのモーリス家の転移室から、ギルド島のモーリス本邸にある転移室。
来客が多いのだろうか、広い部屋の壁に一人掛けのソファーがズラリと並んでいる。そしてなぜか扉の前にあるのは不自然なマット。
(あぁ。ミゲル様が言っていた土足厳禁? 靴を脱ぐんだったよね。スリッパはないのかなぁ?)
ジュンはマットの上で靴を脱ぎ、そっと扉を開けてみる。
忙しそうに皆が働いているので、声を掛ける間合いがつかめないらしく、困った顔をしながら、とりあえずは転移室を出る事にしたようだ。
左右に伸びている廊下を見ると、おそらくはこの家の中央に彼が立っているのだろう。数歩右に行くと大きな玄関があった。
(ここは玄関ホールなのかな。正面の階段が立派だよ。あのあめ色を維持しているのはすごいね。築五百年以上だよ? あぁ改築したのかもね。それにしても不用心だと思う。僕が悪い人ならどうするの?)
階段の手前には、観音開きの大きな扉が左右にある。
ジュンは邪魔にならないように、階段に腰掛けてクレアから借りて来た、本を読み始めた。
「ジュン様でいらっしゃいますか?」
その声に顔を上げると、黒い髪と茶色の瞳の端正な顔にしわがある男が、柔和にほほ笑んでいる。
「はい。ジュンです。初めまして。ジェンナ様にお会いしたいのですが、どなたかお手すきの方はいらっしゃいますか?」
「大変な失礼をいたしました。私、執事をしております、ジーノと申します。主人はジュン様がギルドにご到着になると、コンバルより連絡がありまして、先程お迎えに行かれました。不手際があったようでございます。お部屋は既にご用意させていただいておりますので、ご案内させていただきます。どうぞこちらへ」
「わざわざ、すみません。よろしくお願いいたします」
階段を上がり、途中にある踊り場の正面の壁にはズラリと並んだ家族の肖像画。
一番左端でジュンは足を止めた。
ジュンと同じ顔だが、はるかに大人なカイ夫婦と三人の息子。
少しほほ笑んだ顔は、ジュンの知らないカイのはずなのだが。
(カイがいる。ほら口元の右に少し力を入れる癖……。カイ……)
思わず手を伸ばし、結界にはじかれてうなずく。足元に涙がこぼれて、ジュンは慌てて顔を拭う。十四歳で別れて以来の再会に、かなり動揺したようではあるが、口元に力を入れて何とか持ちこたえたようだ。
「大丈夫でございますか? 絵が古くならないように歴代の主人が、結界を張り時の魔法を維持しております」
ジーノはそう言うと階段右手の廊下にある扉で止まる。
「突き当たりが代々の主人の部屋でございます。左手の扉はミゲル様がこちらにいらした時にお使いになるのですが、残念な事に冬季しかお泊まりになりません」
(慣れ親しんだ主人の間を、ジェンナ様に譲って違う部屋に移るって、そんな必要がどこにあるのさ。あぁ、そうか。ここはギルド総長の家なんだ。カイが知ったら怒るだろうなぁ。俺たち、じじばばっ子だしね。この家は早急に出よう。いろいろと僕には重いよ)
ジーノはミゲルの部屋の廊下を挟んだ右手の扉を開ける。
「こちらが、ジュン様のお部屋でございます」
「ありがとうございます」
ジュンの言葉にジーノがほほ笑みながら言う。
「初めに使われたのはシオン様でございますよ。その後、何人かはご使用になったようですが、主人の部屋に近いので階段の向こうの部屋を、お子様方のお部屋にしていたようです。今は客間になっております」
(シオン様ねぇ。多分本当の子孫でも嫌かもよ。どこでも毎回言われるしね)
ジュンは部屋の感想を素直に口にする。
「とても広い部屋ですね」
「主人の部屋が一番広く、この廊下にある四部屋が次に広くなっております」
(こっちの世界の部屋はどこも広いけど、畳がないせいか形が正方形に近くて、使い勝手が悪いんだ。気のせいか、ある程度の広さ以上になると、急に広く感じられるんだよね)
壁は深い緑色で葉模様の布張り、床板は磨き込まれている。部屋にあるのは、ライティングデスクと、ソファーセットだけで、隣にある寝室にはベッドとチェストしかない。ガランとした部屋の隅に豪華な花が飾ってあるが、それが一層寂しい気持ちにさせる。
ジーノに招き入れられた女性が、お茶を入れてジュンの前に置く。
「ジュン様。侍女頭のサマンサです。御身の回りのお世話をさせていただく者でございます」
「サマンサでございます。後程、専属侍女を連れて参ります。御身の回りの事は何なりとお申しつけ下さいませ」
すっきりとまとめられた緑の髪と、ブルーの瞳が優しげにジュンを見る。
「よろしくお願いいたします」
(良い人たちなんだろうなぁ。でも専属侍女とかいらないよ)
二人が部屋を出ると、ジュンはソファーでゴロリと寝転ぶ。
「今日から仕事でも良かったのになぁ」
何もない人様の家程、退屈な場所はない。
ジュンは本を読みながら眠ってしまったようだ。
「ジュン。起きんか! これ、ジュン」
ジェンナに起こされて、座り直す。
「おはようございます。ジェンナ様」
「もう昼だがな。やれやれアンドリューの、そそっかしいのにも困った事だよ」
ジェンナのため息に、ジュンは小さく笑う。
「アンドリューさんは大らかで優しいから、僕は好きですよ?」
「まぁな。まぁそれは良い。ちょっと付いて来なさい」
「はい……」
階段の下には整列している二十人程の人が居る。
「この屋敷を維持するのに、最低限の人数なのだ」
「そうなんですか? お屋敷で暮らした事がないので……」
ジェンナは階段を下り残り四段を残した所で声を上げる。
「皆。忙しい所をすまないね。ジュン・モーリスを紹介する。モーリスの名を背負う者だ。そのつもりで接して欲しい」
ジェンナの目が、寝起きのジュンに何かを言えと語っている。
(えぇ。うそぉ。先に言ってよ)
「ジュンと申します。いろいろとお手を煩わす事もあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
うれしそうにうなずく、ジーノとサマンサを見て、ジュンはクスリと笑う。
(学習発表会を見に来た、爺ちゃんと婆ちゃんみたい)
階段下にある観音開きの扉の一つは、大きな食堂で、コの字型にクロスが掛かったテーブルがあり、そこにポツンと二人分の食事が用意されている。
ジュンは思わず尋ねる。
「ジェンナ様はここでいつも、お食事をされるんですか?」
「家にいる時はそうだねぇ。ここで食べると皆が楽なんだよ。調理場から続いているからね。どこで食べても一人だからね」
当たり前の事のように答えるジェンナに、ジュンは静かに息を吐き出す。
(ミゲル様もジェンナ様もモーリス家の犠牲者なの? 二人はなぜ総長を継いだのだろう? コンバルには息子も孫もいて、にぎやかに食事ができるのに……)
食事はバランスの良い物で、少量ずつさまざまな食材が丁寧に調理されていて、見た目も味も良く、ジュンは久しぶりに良質な食事を楽しむ事ができた。
その場にいた給仕に感謝の気持ちを伝えて食堂を出ると、一足先に出ていたジェンナが手招きをする。
ジェンナの横で、一人の青年が奇麗な礼をする。
「ジュン、紹介するよ。コラードだ。ジーノとサマンサの孫になる。後で島の案内やギルドの場所を教えてもらいな」
「コラードと申します。よろしくお願いいたします」
「ジュンです。すみません。お手数をお掛けします」
コラードは癖のある黒髪を後ろで束ね、黒い瞳は涼やかにジュンを写している。
ジーノとサマンサが夫婦である事には驚いたが、ジーノにそっくりな彼が、息子ではなく孫である事にも驚いて、ジュンは失礼にも二度見をする。
「祖父母はあれで、結構、年寄りでございますよ。魔人族でございますからね」
コラードの言葉にジュンはコクコクとうなずいて、慌ててコラードを見る。
「えぇ! どうして分かったんですか? 高魔力者ですか?」
「いいえ。ジュン様はお気持ちがお顔に出やすい、お方のようでございますね?」
「言葉で言いますから、顔に聞かないでください。変な事を考えていたら恥ずかしいでしょ?」
「そういたしましょう」
コラードはそう答えて口元を手で押さえた。
(笑いたいなら、笑ってよ。なんか堪えられると余計に惨めだよ)
「申しわけありません」
(……! ……うそぉ)
ジュンはガックリとうなだれた。
コラードはジュンを優しく見つめる。
(わが家は代々、優秀な執事を輩出して参りました。私は高等学校で執事の勉強をし、アルトロアの王室で働く父の元で修行をしておりました。その後、祖父の後継者に指名され、モーリス家にて祖父の補助をして参りました。私はジェンナ様のおそばでジュン様を拝見致しておりました。ジュン様はジェンナ様とは違い、平民意識の高いお方です。執事の必要性を、おそらく感じてはいらっしゃらないでしょう。ジェンナ様にどうなるか分からないが、ジュン様を待てるかと尋ねられ、私はもちろんお待ちいたしますとお答えした。前途がどこへ続いているのか、計り知れない主人に仕える事など、夢だと思っておりましたので、楽しみでございます。えぇ、とても……)




