第三十六話 妖精湖と世界樹
ジュンとレオとハンナの打ち合わせが終わると、ハンナは本を片手にミーナの元に向かう。
「ミーナ様。書庫で面白そうな本を見つけました。ご一緒にいかがでしょうか?」
優しいハンナの誘いに、ミーナは笑みを浮かべる。
「ハンナ……。よむ」
ハンナがミーナの手を引いたところで、ジュンが話かける。
「ミーナ。レオと僕は少しお仕事があるんだよ。出掛けるけどハンナと本を読んでいてくれるかい?」
ミーナはたちまち不安そうな顔をして、ジュンに飛び付く。
「いや!」
「ミーナ。僕がお仕事に行って、戻らない事があったかな?」
ミーナは顔を上げて首を振る。
「かわいい子供に、意地悪をする虫がいる場所に行くから、連れて行けないけど、待っていてくれるかなぁ? レオも僕もミーナが大好きだから、急いで帰ってくるよ」
ミーナはうれしそうに二人の顔を見た。
「ジュン、レオ……。すきいう?」
小さく首をかしげたミーナのしぐさに、レオの母性に近い父性が反応する。
「あぁ。ミーナが大好きだぜ。ハンナの本が面白かったら俺にも教えてくれ」
「ほん? ……。いう……。うん!」
ハンナと自室に戻る後ろ姿に、二人は胸をなで下ろした。
妖精湖。
うっそうとした森が開けた場所に、息を止めているかのように、それはあった。
その場の風は動いてはいない。
青錆色の妖精湖。
どこまでも透明だったと聞いていなければ、この死をまとった姿を哀れには思わなかったに違いない。
湖を滑るように視線を向けた先には、小島が一つあり、灰色の大きな木がある。
深く老いた色をした葉が、辛うじてその木のために、奉仕をしている姿が痛ましい。
「あれが世界樹か……。ひどい姿だな」
レオの言葉にジュンがうなずく。
(いた! 湖に出ている太い根に一匹の魔物が確かにいる。しかし、それをどう伝えようか……)
ジュンの左目には確かに存在している赤い光。
しかし、それを口で言うだけでは、誰も信じる事はできないだろう。
妖精湖は泳ぐ事はもちろん、船を出す事も禁じられている。
よしんばそれらを許されたとしても、調査に難色を示す者に、見つかる訳には行かない。
警備兵の草や乾いた小枝を踏む足音が近付いてくる。
ジュンは石ころテントを出すと、レオを伴って非難する事にする。
「おいおい、なんで逃げる必要があるんだ? 証明書はもらってあるだろう?」
ジュンは小さく息をつくと、レオの前に果実水を出す。
「レオ、僕たちの身元は証明されている。けど彼らは?」
「ルマール領の警備兵だろ?」
「僕たちが調査に入る事は伏せられているんですよ。それはね、人の口に戸は立てられないからなんです。彼らは閉鎖的な森に住んでいるから、隣領同士の交流は古くからあるみたいですよ」
レオは部下を疑う事が好みではないようで、不満が分かりやすく顔に出ている。
「そんな事を言っていたら、調査にならないだろう? 隠れながらどうやって調べるつもりなんだ?」
「もう。調べ終わったんですよ。後はそれをどうやって証明するかなんです」
レオは驚いた顔でジュンを見る。
「世界樹の根が湖の中に出ているんですけどね。そこに魔物がいます。おそらく木の根から魔力を吸収していると思います。水から吸収するより効果的だし、長たちが親切に供給もしていますしね」
「ジュンの言う事だから、俺は完全に信じられるぜ? そうか……。反対する奴らを納得させる必要があるのか」
ようやく理解をしたレオが考え始める。
レオは名案が浮かんだようで、沈黙を破る。
「王女に言って、強硬手段に出るのはどうだ? ギルドに頼んで有無も言わさず、魔物を倒せば平和になるから、問題はないだろう? どうだ?」
レオの提案を受けてジュンが自分の考えを伝える。
「うん。でも気になる事があるんですよ。魔物は随分と前からかなりの魔力を吸収しているでしょう? なのに大きさは湖の中で人目に付かない大きさと、魔力を維持しているんです。魔力は何に使っているんでしょう? この不可侵の結界内にいる魔物とは、全く接点がないんですよ? どこからきたんです? なぜ妖精湖? 魔力が欲しいなら未知領域の方がはるかに良いと思いませんか?」
レオは難しい顔をして考え始める。
「レオ。僕は一応報告のために、魔物の正体を見せようと思います。協力してくれますか?」
「あぁ、当然するに決まっている。何をすればいい?」
レオは表情を明るくしてジュンを見る。
「大胆だけど、深夜に湖を渡って、魔物の姿を映して来ようと思います」
「はぁ? どうやって渡るんだ?」
ジュンは表情も変えずに平然として言う。
「僕は魔法師ですよ? 湖の上を歩くに決まっているでしょう?」
「魔法師が水の上を歩けると思っているのは、ジュンだけだと思うぞ? それで? 俺にも歩けと?」
「いえ。歩きたいのなら歩かせてあげますけど、妖精湖はよした方がいい」
レオはジュンの訳の分からない忠告に、げんなりとして言う。
「分かってるよ……」
「僕が領地の端から渡りますから、逆の端で大騒ぎしてくれませんか? レオは火が使えるでしょ? 夜空には目立ちますからね。夜目が利くし、走ると誰も追いつけない」
「おとりだろ? 任せておけ、俺たち獅子族は月がなくても夜歩きに支障はない」
得意な事で頼られた事に、機嫌を良くしたレオはうれしそうに胸を張る。
ジュンは一枚の小さな紙に陣を書きながら魔法を重ねていく。
「すげぇ。魔法陣が書けるのか?」
「秘密ね。これを持っていて欲しい」
「これは何の陣だ?」
「誰にも捕まってはいけませんよ。レオは他国の王子なんです。問題が大きくなり過ぎます。捕まりそうになったら、これに魔力を流すんです。忘れないでくださいね。絶対にですよ?」
レオはこくこくと首を縦に振る。
ジュンはそれを見て笑みを浮かべ、話を続ける。
「これはヘルネー城の離宮に飛びます。万が一顔を見られても、フードを被っていれば他人の空似で通せます。王と王女には正直に言っても構いません。要は反対する領主をだませれば良いだけですからね」
「お、おぅ。分かった」
月の出ていない森は、自分の足元でさえおぼつかない。
ジュンはレオの待機場所まで一緒に来ると、持ち場の湖の畔に転移した。
空間魔法で世界樹の近くまで湖面の上を固める。人目に付かぬようそれは湖面ぎりぎりに設置する。
遠くの空にレオが放った火花が飛ぶ。
それを合図に、世界樹のそばまで身を低くして走ると、棒につけたスライムを投入する。しかし手元のモニターの画面は、当然だが暗闇だった。ジュンはマントを湖に浮かべると、指先を水につけ光魔法でライトをともす。その時、魔法に魔物が反応した。
(しまった!)
ジュンはマントを拾いながら湖畔に転移する。
「あぁ。マントがケープに……」
ジュンががっくりと肩を落とす。
ジュンはルマール家に戻る前に、互いの無事を確認するため、待ち合わせをしていた場所に向かう。
彼の走る速度は遅くはない。しかし、獣人であるレオが本気をだせば、かなうはずもなく、たどり着いた時にはひどく心配な顔をしているレオが話し掛ける。
「大丈夫だったか?」
「なんとかね。これを見てください」
ジュンの手元には、三分の一になったマントがぶら下がっている。
「戦ったのか?」
「まさか。でも、魔力に敏感に反応する奴でした」
レオはマントを広げて眉間にしわを寄せる。
転移でルマール家の裏門のそばまで戻り、深夜なので、静かに裏門を開ける。
「おかえりなさいませ」
エーベルは二人の帰宅を待っていてくれたようだ。
ジュンは彼に明日の長の予定を聞き、時間をもらえるように頼む。
二人の夕食が用意されていて、ジュンたちはありがたく頂き、深夜まで待っていてくれた人たちに礼を言ってから部屋に戻った。
明けて次の日。
猛ダッシュで飛び込んできたミーナをレオが抱き上げる。
「おかえり……なさ……いませ」
「ん? あぁ。ただいまミーナ。上手に言えたな」
「ハンナ……。いえ」
ジュンは少しはにかむミーナを、優しく見つめる。
「そう。ハンナと練習したんだね。ではミーナが上手に言えたご褒美だよ。二人でどうぞ」
ミーナはジュンにあめをもらうと、ハンナに抱きついてほほ笑む。
長の執務室で、ジュンは魔物の映像を長とレオに見せる。
「これをどうするかは、長たちの判断にお任せするしかありませんが、ルチアーノ様のお心に留めておいていただきたい事があります」
ジュンはあまりにも不審な点が多すぎるこの魔物は、退治をしても消えた魔力の行き先が判明しない限り、そう時間を空けずに、何かが起こる可能性があると長に告げた。
「この映像の入手先をきっと問われると思います。ミーナ様をお連れしたレオナルド様の、知り合いの魔法師の得意魔法だとお答えください。モーリスの名前は出されない方がよろしいでしょう」
長はしばらくジュンを見つめてから、黙ってうなずいた。




