第一話 神界での選択
森須淳はその場で、ただ立ち尽くしていた。
なぜなら、彼は目覚める前は確かに、病の床にあったのだから。
一年間家族に支えられ、病と真剣に向き合い戦った傷跡は、今でも痛々しい。
手術も治療法もすでになく、余命を知った時は、さすがに彼も笑顔は作れずにいたが、病院を出た後の動きに無駄はなかった。
何かに追われているかのように、家族全員に手紙を書き、半年後に産まれる彼の始めてのおいのために木馬を作り始める。
通販のキットではあったが、ヨロヨロと真剣に木馬を完成させたのは、おいの誕生を待ち望んでいる事を、伝えたかったのだろう。
それらを兄に託して彼が向かったのは、病の苦痛だけを取り除いてくれる病院だった。
すでに限界に近付いているであろう家族の精神状態のためにも、彼は残りの時間を、苦しまずに過ごす事にしたのである。
未来を夢見る事が許されない現実を受け止めるには、まだ十九歳と若過ぎる。
土気色の肌、真っ黒なアイホール。
だんだんと眠っている時間が長くなっていく事に、彼は少し救われていたようだ。その間だけは不安を忘れる事ができていたのだろう。
(僕は死んだの? 体が少しもつらくないから、生まれ変わったとか? それ以外に考えられないよ。だってこの景色がね……)
そこには、青空も降り注ぐ太陽の光もなく、手入れの行き届いた、肥よくな黒い大地もない。
それでも畑だと認識したのは、八百屋にでも並んでいそうな、白菜に似た植物が見渡す限りに生えている、不思議な風景が広がっているからに他ならない。
辺り一面が真っ白な場所に植わっている、十センチから三メートル程のさまざまな大きさの物を、植物と認める事ができるのかは、また別の問題である。
優しい明るさがあり、足元の大地は柔らかい。かすかに風があるのだろうか、暖かいが空気によどみはない。
彼の視線の先には、二人の男が二メートル程の大きさの植物が開いていく様子を見つめている。
花のつぼみが開くところすら見た記憶がない彼は、ゆっくりと開くその光景から目が離せない。
植物が開ききった時、彼は思わず口から出そうになった声を飲み込んだ。
なんと、そこから現れたのは、全身が真っ白な人間だったのである。
二本の足で立っているとはいえ、植物から出て来た者を、人間と呼ぶのは多少乱暴ではあるが、それにしか見えないのである。
(兄ちゃん。キャベツからは赤ちゃんだったよね? 白菜からは大人が誕生するみたいだよ……)
待っていた男たちが長方形の白い布を頭からかぶせると、中央には切れ目があったのか頭が現れる。もう一人の男が腰に手をまわしてヒモで縛ると、ただの布が洋服に見えてくるから不思議だ。
二人に手を引かれて、ゆっくりと歩きだしたその人は、筋肉もすでについているのだろうか、驚いた事にすぐに一人で歩行を始めたのである。
彼は自分の体を見て、同じ服を着ている事を確認すると、少々微妙な顔をして首を振った。
音のない場所で声というものは、ことのほか響くようである。
忙しそうな会話の主たちが近付いてきて、目の前で止まった。
コピーをしたかのように似ている、真っ白な女性が何者なのかを、彼は探るように見つめる。
彼と同様の白い服に、センターパーツの足元まである白銀の髪、唯一違う所は瞳の色である。黒色や焦げ茶色になじみはあるが、単一民族国家で育った彼の目には、赤い瞳は珍しく映る。
(アルビノって瞳孔も赤だから、黒い瞳孔は違うのかな? きれいだな)
「待たせたか? 私はイザーダ世界をつかさどっているイザーダだ。そして隣にいるのは、私の弟子で地球の創造神の手伝いをしているクローメだ」
「初めまして、森須淳と申します」
赤い瞳をしたイザーダの自己紹介を受けて、彼は自分の名前を口にする。
「初めましてぇ、クローメよ。いろいろと聞きたい事もあるでしょう? 私たちにもあるのよ? 取りあえずここは始祖の場と言って、新しく知的生命体を得る世界の住人が生まれる場所なのよ。落ち着いて話せる場所に移動するわね?」
(黒い瞳の方がクローメというのは、ニックネーム? 自己紹介をしたのだから、そう呼んでも失礼にはならないのかな?)
「ニックネームじゃないわよ?」
突然振り返ったクローメの言葉に淳は驚いた。
「すみません。心が読めるのですね?」
淳の間の抜けた質問に、クローメは小さく笑う。
「そんな訳ないでしょう? 初対面の人は同じ顔をするので、慣れているだけよ」
前を歩いていたイザーダが手を振ると、白いテーブルとベンチが現れる。
「ここら辺りで良いな?」
ほんの少し歩いただけだが、先程までいた場所はもうどこにも見あたらない。
(非常識な場所で起こるあれこれの、つじつまを合わせていても仕方のない事かもしれないけれど……)
彼は心の健康のためにも、早々に考える事を諦めたようだ。
二人と向かい合う形でベンチに座ると、イザーダはその赤い瞳で、真っすぐに淳を見つめる。
「まず先に私から一つ、尋ねたい事がある」
「何でしょうか?」
イザーダの言葉に、淳は少し首をかしげながら聞いた。
「お主の命の時間があとわずかなのだ。覚悟は決まっておるようだが、それで本当に良いのか? 地球には戻れはしないが、イザーダという私の世界で、生きる事ができるがどうする? すでに会話もできる容態ではないのでな。それを聞きたくて来てもらったのだ。体は地球から離せないので、許可も得ずに先程の場所で体を用意したのだ。許せよ」
唐突に生きる事ができると聞かされた淳は、あまりの驚きにあの奇妙な畑にいた理由などは耳を素通りしたようで、イザーダをしっかりと見て尋ねる。
「僕は病気で最期が近い事を知っていました。あがきました。生きたくて……。
しかし、許されなかったのです。どうして? なぜ? とお聞きしてもよろしいでしょうか? 残念ですが僕はそうしていただける程の、何かを持っている人間ではないのですが」
「あぁ、何と言うか……。罪滅ぼしなのだ……。かつて私は一人の少年の人生を台無しにしてしまったのだ。その者の名前は森須快と言う」
「快ですって!! あ、あなたが快を殺したんですか?!」
淳は目を見開きイザーダに詰問する。
森須快は淳よりひと月ほど遅く誕生した、いとこである。
四代続いた肉屋で働く父親同士が兄弟だった事もあり、祖父母の敷地に二所帯は家を建て、仲良く暮らしていたのだ。
祖父母は、息子たちの家族を温かく見守り、両家の末の子である快と淳の事は、歩くより前から常に一緒にかわいがり、共働きの親に代わって、面倒を見てくれていたのである。
(明るくて元気が良くて、俺様のくせに泣き虫で、僕のポケットにはいつも快専用のばんそうこうが入っていたんだ。森須家が地獄を見た、あの日までは……)
快の家族が買い物に出掛け、その帰宅途中に大事故に巻き込まれたのは夏休み。
快の両親と姉は即死。意識不明のまま、一週間後に快は息を引き取った。
森須家は立ち直るまでに、長い月日を必要としたのである。
快と淳は事故がなければ、二日後に夏休み最後のキャンプに行く予定だった。
当時の二人はキャンプに夢中で、付き添う大人を捕まえては、出かけていたのである。
あの日を境に淳は誰に誘われても、キャンプにだけは二度と行く事がなかった。
淳の苦痛にゆがんだ顔を見て、クローメが声を掛ける。
「落ち着いてぇ! あのね、イザーダ様は神だからね? 違うのよ。彼は死ぬ寸前に、イザーダ様が救いあげたんだからね」
「いや……。結局は私が殺したも同じだ。十四歳の何の力も持たぬ少年に頼るしかなかったのだ」
イザーダは自分の世界には魔法があるという。
ある日、一人の王が空中に不自然なひずみを見つけた。それが事の始まりのようである。
そのひずみから突然現れた一冊の本は、勇者と仲間たちが、魔王を討伐する物語だったようだ。
王はその物語に魅せられ、異世界から召喚するだけで得る事ができる、勇者の力を信じてしまったらしい。
世界征服を夢見るようになった王を止める者は、残念な事にその国にはいなかったようだ。
誰の思惑でそのひずみが現れ、なぜ本がイザーダの共通語で書かれていたのかは、神たちですらその真実を突き止める事ができなかったのだと、イザーダは肩を落とした。
イザーダは自分の弟子たちに、他の世界からの召喚を禁忌の一つとして掲げている。
生きて世界を渡るには、神の力が不可欠なのだ。
誰からも反論がなかったのは、各世界の秩序を守るための規則は、自分の世界を守る規則でもあるからに他ならない。
当然、その王の行いは水泡に帰するはずだったのである。しかし、神を頼らずとも、王のそばにはひずみがあった。
地球で突然起こった、不可解な事故に驚いた地球の神が、イザーダの元に駆け付けた。
イザーダは生き残った快と名乗る少年に、その国にある召喚の資料を、根絶やしにして欲しいと助けを求めた。
神は民の物に手を出す事はできない。
剣術と魔法の訓練を施された快は、神に日本に帰る事を約束させると、その王に召喚されて行った。
快は実に見事に約束を遂行し、その後の百年間、イザーダの民のために力をつくしたのである。
約束通り、事故から一週間後の地球に戻ろうとした時、快は立ち尽くして、苦しそうに涙を流した。
快の精神は百歳を優に超え、病室にいる祖父母の倍になっていた。そして、ベットの横で目を赤く腫らしている、一番会いたかったいとこは、あろう事か自分の孫よりさらに幼かったのである。
地球人の人生は短い。それでも、どれだけの月日を謀りながら生きていけるかと考えた時、快は神に地球での人生を諦めた事を告げた。
その時に快は、神に一つだけ願い事をしたのである。
『淳は弱音を吐かないやつなんだ。そんなあいつがもし神に本当に祈りをささげたら、一度だけでいいんだ、かなえてやってほしい』
地球の神とイザーダ神は快の願いを快く聞き入れた。
イザーダは淳を見据える。
「しかし、お主は一度も願わなかった。病気になってすぐに願うだろうと思ったが、全く願わない。弱音を吐かないにも程があると思うがな」
少しあきれた様子のイザーダに淳は困ったように言う。
「あぁ……。子供の頃、快が神社の桜を祖母に見せたくて、抱える程の数の枝を折ってしまったんです。それで木が枯れてしまい大騒ぎになったんです。それ以来、神社には行けなくて……」
(ここで言い訳するのも変だけど。父親たちと謝りに行って以来、行けなくなったのは仕方がないよ。神主さんがすごく怖かったんだから)
「なるほど、快のやりそうな事だな。あやつは都を一つ跡形もなく消しておいて、私に向かって大声で祈ったのだ『神の使いの俺が願う! この王都を豊かな森に替えたまえ!』ってな」
「随分と偉そうな祈りですね? それで苗木でも送られたのでしょうか?」
淳はイザーダの話に、少し笑みを浮かべて尋ねた。
「世界中の王をわざわざ集めて、植林はないだろう? 年若い自分の付加価値をみせつけたかったのだろうと思ってな。取りあえず一瞬で森を作ってやったわ」
「やりたい事を知っていたから、協力してあげたって素直に言えばいいのにねぇ。私たちはヘトヘトになったイザーダ様を見る事ができて、楽しかったけどねぇ」
楽しそうなクローメの言葉に少し肩を落として、イザーダは淳を見つめる。
「さて淳よ。残りの時間はもうない。どうする? 私は快の気持ちを受け取ってほしいのだがな。幸せな人生を送るかどうかは本人次第だが、諦めていた未来は手に入れる事ができるぞ?」
少し間、下を向いていた淳は拳を握りしめ、顔を上げる。
「はい。せっかく神様にお会いできる、まれな経験をさせていただいて、命まで助けてくださるのです。神様と快からの贈り物だと思い、人生を楽しみたいと思います。よろしくお願いいたします」
「そう! 良かったわ。地球の家族はしばらく私が見守ってあげるわ。じゃぁねぇ。今度は楽しく過ごしてね?」
「よろしくお願いいたします」
彼の死を受け入れる家族の事が心配で、淳はクローメに深く頭を下げた。
(手紙には幸せに生きてきた感謝と、泣かずに見送って欲しいと書いたけど……。
ごめん。生きていると知らせる術が僕にはないよ)
「さて淳。これから行くイザーダは、剣術と魔法がなければ生きていけない。快にも施した特訓を受けてもらう。向こうへ行ってすぐ死んではつまらないからな」
そう言うとイザーダは一人の男を呼び出す。
「ラミロだ。快に稽古をつけたのも俺だ。簡単に死なない様にしてやるから、安心してついて来い」
やや低めの落ち着いた声と共に現れたのは、全身は真っ白だが、筋骨隆々の大男だった。
(ここの人たちって塗り絵仕様なのかな? 全身が白いのはデフォなんですね)
淳がラミロとその場を辞すると、入れ替わるように一人の男が現れる。
「会えば良いものを……。淳も快に会えたら、さぞ喜んだ事であろうに」
「淳が天寿を全うしてからな。顔を合わせたらきっと、あいつは生きる事を選ばない。すげぇ良いやつなんだ。きっとあの世界に受け入れられる」
「心根の優しい者なのだろうな。そばにいると確かに温かい」
「あぁ。これを渡してくれるか? 俺からの贈り物だ。どうせもう使えないしな」
「ほほぅ。これは良いな。うむ、お主の子孫か……。悪くない」
遠くの叫び声が聞こえて来る。
『だから! なぜ逃げる! まて!』
『いやいや、危ないですって! 刃物もって追いかけられたら逃げますって!』
『逃げたら追いつかれて食われるってんだろ!』
『イザーダで引きこもります!』
快はうれしそうに笑いながら言う。
「俺と同じ事を言ってらぁ。ラミロの殺気は半端じゃないしなぁ」
「あぁ。引きこもっていても、命を食らわねば生きては行けぬと、すぐに気が付く世界だがな」
「まぁな。あとはよろしく頼む」
イザーダは静かにため息をつく。快はイザーダの大地を離れてから、五百余年の月日が流れた事にまだ気づいてはいない。
「快。お主の時間がようやく動き始めたのだな」
イザーダ神の赤い瞳は優しく快の背中に向けられていた。