雪の花
浪人2周目が確定した冬の終わり。この先どうしようかと途方に暮れていた19歳のある日、母が慌てながら私の部屋へ転がり込んできた。バン!とドアを開け、目を剥き出して私に言った。
「智子ちゃんが死んだって!」
「……え?」
私は最初、誰の事かわからなかった。誰だっけ?と暫く考えていたら母がまくし立てるように怒鳴った。
「智子ちゃんだよ! ”畳屋”の!私は身体がこんなだから、お通夜は代わりに行っておくれよ!」
「あ……」
私は”畳屋”という屋号で思い出した。一つ歳下の幼馴染み "畳屋"の智子だ……でも何で? 突然過ぎる母の言葉を理解出来ないでいた。
その夜、洋服ダンスから掻き集めた黒系の服を着て自宅を出た。智子の家は同じ通りの7軒先で、少し離れた向こうの家。小学校卒業後は一度も遊びに行かず、今日までの6年間、あの時以外は一度も会っていなかった。別に彼女と喧嘩したわけではない。中学校へ進学してからは部活動や友達付き合いが優先になった上、進学した高校についても通学の方向が全く逆だったので、いつの間にか互いに疎遠になっただけだ。
智子と私は第二次ベビーブームの絶頂期に生まれた。一家に2~3人の子供がいるのは当たり前の時代だったから、近所には 0歳~12歳くらいまでの子供達がズラリといて、まるで12色で1セットの色鉛筆のように殆どの年齢が揃っていた。当時は年上の子供が近所に住む年下の子供の面倒を自ら進んでみていたそうで。どこぞで赤ん坊が生まれたと聞きつけては、”お兄さん、お姉さん”ぶりたい子供達が集まり、こぞって皆で世話をした。近所の子供達が我が子と遊んでくれるので、母親達は随分と助かったらしい。そんな昭和の良き時代、この近所の子供達は兄弟・姉妹のように仲良く育った。智子と私は特に仲が良かった。やりたい遊びが同じで気が合い、ちょくちょく互いの家に上がり込んでは昼飯をご馳走になるほど仲が良かった。こんな事もあった。いつものように朝早くに遊びに行くと智子が綺麗な着物を着て庭にいて、お婆さんと妹と3人並んで写真を撮っていた。なんと、七五三だったと知らずに遊びに行ったのだ。シミが付いた汚い普段着の私だったが、そんな私を祝いに混ぜてくれて嬉しかった。智子とは、毎年毎年、進級しても相変わらず一緒に遊んでいた。夏休みの宿題だって一緒に片付けた。習字の塾も一緒に通ったし、時間さえあれば頻繁に行き来していた。とにかく智子はとても元気で畑や野原を走り回る子で声が大きく、雨の日は傘をさし、なんとしても外で遊びたがるアウトドア派だった。雨上がりにできた土の道の水溜まりは恰好の遊び場になった。智子は全身泥水でビショビショになって大人からゲンコツもらい、私はそれほど泥だらけにならなかったが、それなりに『とばっちり』を受けたので喧嘩した。振り返れば楽しい思い出がいっぱいで話し始めたら切りがない。
今夜、智子の家へ約6年ぶりに訪ねる。月は薄雲に隠れ、冷たい北風が吹いていた。智子の家に近づくと、小さな外灯と家の灯りがぼんやりと道を照らしていた。あまりよく見えないが、昔と何ら変わってないようだ。私の家の周りには新しい家が次々建って雰囲気が一変したのに、智子の家の前とその辺りは相変わらず畑だった。智子と最後に遊んだのはこの場所だ。景色を見て思い出した。私が小学6年生、智子が5年生。その日はそれぞれの友人も含めて5人くらいで遊んでいた。智子の曾祖母婆が米寿の祝いを迎えたので、じゃぁ私達は何歳まで生きるのかなという話になった。88歳(米寿)まで生きる事さえとても大変だった当時。私達は、ありえないだろうと思う年齢を次々言った。
「あたしは90歳!」
「じゃぁ、あたしは92歳!」
「え~っ! あ、あたしは95歳~!」
友人達が年齢を上げていく。さぁ次は私の番だ。 思いっきり上の年齢を言ってやる……でも3桁はありえないなぁ。
「暁美ちゃんは?」
智子がウズウズしながら聞いてきた。
「あたしはねぇ……」
ちょっと勿体ぶる。友人達と智子が私に集中する。
「あたしはね、99歳!」
鼻の穴を膨らませて、どうだと言わんばかりに言うと、智子は嬉々として大声で喜んだ。
「やったー! あたしの勝ち!」
「え? 何でっ?」
私はビックリして聞くと
「あたしはね、100歳まで生きるの!」
智子は橙色の夕日を全身に浴びながら元気よく宣言した。
大人達の列に混じって正面玄関へ行くと、そこには長テーブルが置かれていた。智子の親戚の人達が一人一人に沈黙の挨拶をしていた。私も前にいる人達に真似て形式的な挨拶をして香典袋を出す。
智子は18歳の誕生日を迎えて間もなかった。 どうして信じることができるだろうか?
近所の人達が智子の家へ続々と集まってきた。私が庭の隅っこに一人でいると後ろから懐かしい声が呼んだ。振り返ると、智子と私が幼かった頃よく遊んでくれていた近所のお姉さんがいた。
「暁美ちゃん、久しぶり。 大きくなったねぇ。私を覚えてる?」
10歳年上のお姉さんは、いつの間にか2児のお母さんになっていた。
「……智子ちゃん、まさかこんな事になるなんてね」
お姉さんは俯きながら呟くと、智子が亡くなった経緯を教えてくれた。
智子は『拒食症』になっていたそうだ。拒食症とは過食症と同じく深刻な精神疾患の一種。ダイエットの延長では済まされない摂食障害。戦時中じゃあるまいし、今の時代に食べられないで死ぬとは考えられなかった当時の私には、到底理解ができない病だった。智子は極端なダイエットをして拒食症になった。腕や脚は小枝のように痩せ細り、肋骨はくっきり現れた。いつもフラフラな状態なのに、高校は自力で毎日通っていたらしい。そして昨日。下駄箱近くで倒れた際、打ち所が悪くてそのまま亡くなったそうだ。お姉さんが私の手をとり、智子の家に上がった。8畳2間続きの広い和室には物々しい祭壇が設置され、その前には真新しい長い木箱が置いてあった。集まった近所の人達は黒い服を着て、用意された座布団の上にうつむいて正座していた。線香の香りが充満するこの部屋には、懐かしい家の匂いも混ざっていた。智子のお母さんが、私を見つけてくれた。
「暁美ちゃん、よく来てくれたね。 ありがとう……」
努めて明るく振舞っているのか、娘の死が信じられない母親の姿がそこにあった。私は小学生の頃に戻ったように挨拶した。いつも一緒に遊んでいた幼馴染みの死をまだ信じられない自分がここに居た。互いに普通に挨拶をして、にこやかに顔を合わせる。私は正座で智子のお母さんのそばに居座り、長々と話をしていた。後から来た人達が智子のお母さんに次々無言の挨拶をしていく。やがてお姉さんが私にそっと声をかけたので、祭壇の前へ行く大人達の後を追った。大人達がそうしているから私も真似てお線香摘まんで額に近づけて入れ物に入れ、ゆっくりと真新しい長い木箱を覗き込んだ。
痩せこけた智子が中にいた。頭から倒れ込んだらしく、額からこめかみにかけて大きなアザがあった。どの向きでどんな風に倒れたのか容易に察する事ができた。同時にあの時を思い出した。
約半年前、私は駅前のバス停で智子らしき女子高生を見かけた。声をかけようと近づいたけど、その女子高生があまりにも不健康に青白くガリガリに痩せこけていたので、智子なのか否か分からなくなった。もし人違いだったら恥ずかしいと思い、私は声をかける事を躊躇った。なぜなら私の知っている智子は身長から110を引いた体重で健康的体型の子だったから。ところで彼女も、私を見て声をかけようかどうしようかと迷ってる様子だった。彼女も私も躊躇いながら無言で見合ってるうちにバスが来た。結局、何も言葉を交わさないまま彼女はバスに乗り、私は駅へ向かった。もしかしたら、あの時の彼女が智子だったのかもしれない。いや……智子だ。棺桶の中で眠るその顔はバス停で見かけた女子高生だった。悔やんでも、悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。 人違いでも構わないのに、どうして声をかけなかったのだろう。
「その痩せ方は異常だよ、病院へ行こうよ」
どうして言わなかったのだろう。
そういえば昨年かその前頃、智子の妹が何年ぶりかに私の家へやってきて言った。
「お姉ちゃん、ダイエットしてるんだよ。でもね、骸骨みたいにガリガリなんだ」
だけどこの時、私は「へぇ、そうなの?」としか言わなかった。自分の事だけで命一杯で、他に気を回すゆとりが無かった。それにダイエットでガリガリになるなんて有り得ないだろうと思ったし、変なら病院へ行くだろう!?とも思って、真剣に取り合わず話しを終わらせた。
もしかしたら、智子の妹は私に姉の状態を伝えたくてわざわざ家に来たのかもしれない。間近で智子の変調を見てきている妹。もしかしたら、色々と話しを聞いて欲しかったのかもしれない。もし、この時に智子の様態を見に行って何か行動を起こしていれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。心の奥に溜まっていたモノが一気に溢れ出てきた。ずっとずっと泣き喚いていたら、近所のおじさんやおばさん達がやってきて、そっと支えて立たしてくれた。
帰宅後、私はずっと悶々と考え込み一睡もできなかった。
翌日、智子の家は葬儀の準備で慌ただしかった。当時は自宅で葬儀が行われるのが一般的だったので近所の人達は総出で手伝いに行った。女衆達は料理を担当した。私は手術したばかりの母に代わって参加した。料理がからっきし駄目だったので、主に食事を運んだり茶碗などの片付けを任された。出棺は13時なので大人子供全員で手際よく事を進めた。
皆、黙々と用意をしていた。お婆さんやお爺さんの葬儀なら悲しいなりにも思い出話に花が咲くが、 赤ん坊の頃から知っている、 まだ18歳になって間もない子供の葬儀だから、水を打ったように静まり返っていた。聞こえるのは野菜を刻む音や煮物をしている鍋の音、食器類のカチャカチャと鳴る音だけ。私は大人達と共に、出棺30分前までに急いで食事を済ませた。色々な準備に追われ忙しかった智子のお母さんが台所へ来て、最後にもう一度会ってやってと私を呼んだ。『最後』という言葉にドクドクドクする心臓を押さえ、小走りで和室へ急いだ。棺の周りには数人のおじさん達がいて、棺に蓋をする準備をしていた。私はおじさん達へ会釈をしてから棺のそばに膝をつき、そっと中を覗き込むと死化粧をした智子が眠っていた。 顔のアザは上手に隠されている。表情も昨晩より柔らかな雰囲気になっていた。もともと色白の綺麗な肌の智子。ほんのり淡い頬紅をしてその上から薄く白粉をしただけの死化粧は、まるで梅の花や小枝に静かに降った雪の花のようだった。おじさん達が、そろそろ時間だからと声をかけた。
私はお姉さんや近所のおばさん達と外へ出て道に並んだ。向こうには智子のクラスメイトも集まっていた。彼らもやはり「今」を信じられないような目で様子を見守っていた。近所のおばさん達がそっと小さな声で、智子が拒食症になった理由を話してくれた。それはお姉さんも知らない事だった。智子はクラスに好きな男子がいた。ある日その男子に告白したが返事は”NO”だった。別にそれだけなら誰でも経験するだろうし、よくある話だと思う。しかし智子の場合は断った男子の言葉に傷つき過ぎた。「太った女は嫌いだ」と面と向かって言われたらしい。智子のショックは大きく、この日から過度のダイエットが始まったそうだ。
「あたしはね、100歳まで生きるの!」
あの日、智子が元気よく答えたこの場所で、私は彼女を乗せた霊柩車を見送る。
どうして私は、この光景を受け入られるだろうか?
13時。真っ青な澄みきった広い空へ向かい、霊柩車のクラクションがパァーーーンと長く長く鳴り渡る。発つのを惜しむかのようにゆっくりゆっくりと走りだした霊柩車は、やがて道の向こうへ行ってしまったが、私も、赤ん坊の頃から成長を見守ってきた近所の人達も、霊柩車が見えなくなってもなお無言でずっと立ち尽くしていた。
その晩、私は母へ気持ちをぶつけた。それは亡くなって悲しいではなく、智子が死んだ悔しさと怒りからだった。そもそも、拒食症になった原因が許せなかった。私の信条は『去る者は追わず』。まして女に対して失礼な言葉をほざく奴は論外で、こっちから願い下げだと蹴り入れたいぐらい。智子なら他にも優しい人と出逢えるはずなのに、どうして私のように割り切らないで苦しまなきゃいけなかったんだと悔しくて悔しくて怒りが収まらなかった。母はそんな私の言葉を黙って聞いていた。
翌朝、智子のお婆さんが葬儀のお礼に訪ねてきた。背中が丸く曲がった小さなお婆さんを母と二人で出迎えた。お婆さんは私を見るなり、頭からつま先を何度も何度も眺め「本当はこうなんだよね、本当はこうなんだよね」と 呟きながら私の腕や脚をずっとさすっていた。智子が元気だった頃と重ねているんだろうなと思った。お婆さんが帰った後、母が私へ言った。
「智子ちゃん、自力でお風呂に入る事が出来ない日もあって、お婆さんが身体を拭いたり身の回りの世話をしてあげていたんだって」
私は黙って頷いて、すぐに自分の部屋にこもった。誰にも泣き顔を見せたくなかった。悔しさと悲しさと空しさと怒りと、智子へ何も言葉をかけなかった後悔でぐちゃぐちゃになって、声を押し殺して泣いた。駅前のバス停で智子を見つけたあの時が、智子を助けられる機会だった。
『人違いだったら恥ずかしい』
私はそんな自分のちっぽけでくだらない理由で、声を出さずに苦しんでる智子を助けられなかった。
心が傷つく病の苦しさは、その病を経験した人でなければ到底察しできるものではない。原因も人それぞれだから、たとえ病を抱えても理解できると必ずしも言えない。でも、共通した助ける方法があると思う。それは相手の存在を見守っているという意思表示。「おはよう」「こんにちは」「元気?」など『いつも』声をかける、至極簡単で基本的な事。たったそれだけで、どんなに気持ちが救われるだろうか。何か普段と違う雰囲気を感じとったら「どうかした?」と気づかう言葉。どれもたった一言だけど、取り返しがつかない事へ向いていた心を、少しだけ変えられるかもしれない。
こんな至極当たり前な事に私が気づいたのは、智子が亡くなってから十数年後。自分が心の病を患ってからだ。今の私なら人違いでも声をかけるだろう。もし違ったら、それはそれで良い。ただの人違いだけで済むから。
冬の終わりは智子の命日。今年、私は智子のお母さんと同じ歳になった。
〈終〉