case1-3
この町には、高層というには心もとないが、近年10階建てをこえるマンション等の建造物がポツリポツリと建ち始めていた。
中でも首都圏でも有名な、建設会社酢塊グループの建てた酢塊マンションは地上14階建て、地下三階の駐車場を備え、最も規模の大きなものであった。
深夜、そのマンションの屋上、飛び降り自殺防止のフェンスを超えたその端で一人の男が立ちつくしていた。
禿げた頭、脂ぎった顔に、ずれた眼鏡、着ているスーツはクタクタで、ネクタイはヨレヨレ。
まさに窓際族といった感じの、中年の男だ。
男
「何で・・・何でこんなことに。」
男は、見てくれ通り毎日のように会社で打ちのめされ、
社外に営業活動に出ても相手にされず、
そして、この日もこのマンションで営業を行い、全て断られて絶望の淵に今日その場に立っていたのだ。
端から見れば、仕事ができないぐらいでという話ではあるが、
日々重なる上司からの叱責と呼ぶには度を超えた暴言、同僚からの陰口、家族からの疎外感に、男は最早限界に達していた。
男
「ひっ・・・ひっ・・・ごめんなさい。」
男は汗、涙、鼻水と、顔面からありとあらゆる液体をたらし、
自分の不甲斐なさ、家族への申し訳なさ、胸に溢れる思いをその言葉に込め身を投げ出そうと足を踏み出そうとした。
その時だった。
「死んで何になるんですか!?」
怒号にも似た声が男の背後から突き刺さった。
男は驚き、あわや転落しそうになるも、なんとかその場にへたり込んだ。
転落の恐怖と、謎の声への驚愕に失禁し、震えながら振り返るとそこには、黒い帽子を目深にかぶり黒いトレンチコートに身を包んだ男がいた。
見てくれから自分の知り合いにはこんな格好をする人間はいないし、顔もよく確認できなかった。
謎の男
「スミハシさん。
顔を上げてください。」
謎の男が一転、穏やかな声で続けると男はぎょっとした。
隅端居蔵、それが男の名前だった。
隅端
「ななななな、何でワタシの名前を?
あ・・・・・・あなた誰です???」
謎の男
「くだらない。
私が誰かなんて実にくだらない話だ。
そんな事より隅端さん。あなたにはまだ出来る事があるはずだ?
違いますか?」
謎の男がいうと、隅端は急に取り乱し禿げた頭を掻き毟った。
隅端
「あんたに何がわかると言うんだ!
何の引き継ぎもされずに急に現場に飛ばされ、
ネチネチとこうるさい上司や怒鳴る上司に毎日怒られ、こづかれ、年下の同僚にも馬鹿にされてコキ使われて・・・。
仕事もうまくいかないし、ローンもあるし、もう死ぬしかないじゃないかぁあ!?」
吐き出すように隅端が喚き立て、その場に泣き崩れた。
静寂に隅端の嗚咽だけが響いた。
謎の男
「下らぁんっ!」
町中に響き渡りそうな、凄まじい怒号が隅端の耳をつんざいた。
それは先程、隅端の自殺を制止したものよりも鋭く、ナイフを胸に突き刺されたような声だった。
隅端は思わず短く「ひっ」と声を上げた。
謎の男はベッと唾を地面に吐いて、ドスの効いた低い声で続けた。
謎の男
「仕事仕事仕事。家族家族家族。
実にくだらん。実にくだらない話ですよ、隅端さん。
あなたは周りの事しか見えていない。
嫌、見ていない。」
男は話しながらフェンスの先の隅端へ歩を進める。
隅端は男の得体の知れない存在感に圧倒され、言葉は愚か、息をするのも忘れていた。
男はフェンスの前まで来て、フェンス越しにへたりこむ隅端に視線を合わせるように座り込んだ。
謎の男
「もういいじゃないですか、辛かったでしょう?」
今度は天使のような、全てを包み込むような優しい声が隅端を包み込んだ。
その筆舌しがたい包擁感と安心感に、隅端の心が感じたことのないような気持ちで溢れる。
隅端は顔をあげ、目前に迫った男の顔を見た。
男の背後には満月が輝き、まるで神に後光が差しているようだった。
しかし、男の顔は闇に紛れ、やはり見えない。
男は懐に手を入れると、何やらゴソゴソと取りだした。
懐から出した男の手にはトランプ台のカードが握られていた。
そして男は先程の天使のような声で切り出した。
謎の男
「ここに握られているのはあなたの新たな人生のパートナーです。
あなたがこれを受け入れれば、明日からこれまでとは比べ物にならない快こびが、楽しみが、あなたを待っています。
しかし、今までの生活にはもう戻れません。
このパートナーを受け入れず、あなたが罵詈雑言の日に戻るのも、
周りを一切気にせず快楽の海へ旅立つのも自由です。
さぁ、あなたの答えを。」
そう言うと男はカード隅端に差し出した。
カードは眩い光を放ち、隅端の視線を捕らえて離さなかった。
隅端は骨を目にした犬のように、フェンスに飛びついた。
隅端
「そ、それを!
そのカードを!
新しい生活を私に下さい!!」
隅端が、そう言った瞬間、カードはさらに輝きを増した。
謎の男は漆黒の闇に白い歯を輝かせて笑みをを浮かべ、カードを隅端に投げつけた。
あきらかにフェンスの隙間よりも大きなカードは、まるで映画のVFXのようにフェンスをすりぬけ、隅端の体へ吸い込まれていった。
次の瞬間、隅端の意識は漆黒よりも暗い闇へと消えた。