07
気だるい体を起こして、春明は頭を押さえた。頭が割れそうな程に痛い。
ハラハラと落ちる水滴で頭痛の原因が分かった。
もう休んでいる訳にはいかない、精神的にも身体的にも考えてそう判断した。
ベッドから降りた春明は余計な考えを振り払いながら、ピルケースに手を伸ばした。
一つ紅色を手に取って口に放り込む、無理矢理に飲み込めば少しだけ安心してしまう。
まだ動けるのだと、そう感じたからだ。
フラフラと覚束無い足取りで、春明は脱衣所へと向かった。
暫くして出てきた春明は準備万端で、文句の付け様が無い程に祓魔師だった。
何かで腹を満たしてから家を出ようと思っていると、玄関扉を叩く音が聞こえた。
カツンカツンと爪を当てて叩くその音のお蔭で、誰が来たのか開けなくても分かった。
春明は一つ溜息を吐くと玄関へと向かった。
扉を開いて視線を落とせば、尻尾を元気なく垂らして項垂れる犬が居た。
「ハルちゃーん、寒いー」
そう言いながら犬はするりと玄関に侵入した。
体を震わせる犬を見ながら、もう一つ春明は溜息を吐いた。
吸血鬼に気を許している自分が居る事に何とも言えない感情を抱えつつ、春明は扉を閉めて犬と目線を合わせる為にしゃがみ込んだ。
「何か遭ったのか?」
「あんねー、なんかマグが変なんだよね。魂抜けちゃったみたい、しかも傷だらけなんだよ」
「綺麗なお肌がかわいそうだったよ」と犬は残念そうに溜息を吐いた。
「……傷ってどんな?」
興味を持った様で、目を細めると春明は犬に聞いた。
それを聞いて、少しだけ驚いた様な雰囲気で犬は答えた。
「えっ? あ、別に俺がマグと一緒にお風呂入ったとかそう言う事じゃないからね!」
犬の発言に表情を険しくした春明は小さく「興味ない」とぶっきらぼうに答えた。
そんな春明に犬は少し不満そうだった。
「むぅ……、仕事人間なんだからぁ。――えっと、なんか痣が出来てたよ」
「痣……、ね。その痣って殴られた様な痣? 鞭打ちみたいな痣?」
少し考えてみたが分からずに犬は「ちょっと判りかねまする……」と呟いた。そして困った様な表情で「鞭打った事がねぇもん」と続けた。
少々考えて、犬は一つ思い出したのか春明に告げた。
「あ、でもー? 頬っぺたには殴られた様な痣があったよ。あと肩も怪我してたみたい?」
犬の言葉を聞いて、春明は考え始めた。
痣、それに魂の抜けた様な感じ、教会で保護されているあの男性もその様な感じだった。
同じとは断定できないが、可能性はある。
「何か探し物していたり誰かに会いたがったりしてない?」
「たまにどうしようどうしようって言ってるよ、なんか連れて行かないといけないんだって」
「探し物は生物か……」と小さく呟いて、春明は深く思考の中へと潜っていった。
そんな春明を眺めながら、犬は控えめに声を掛けた。
「何か……知ってるの?」
「――……まだ言ってなかったか、操られていた人間には打撲痕が多数あり、魂の抜けた様な虚ろな顔をしていた。それに探し物をしている、……だから類似点が多い気がしただけ」
思考を一旦中断して、春明は犬に説明をした。
それを聞いた犬は目を瞬かせると慌てた様な声を上げた。
「そんなの聞いてないよ! マグ放置して来ちゃったじゃん!」
春明の言った事とマグの状態に思う所があったのか、犬は慌てて立ち上がるとソワソワし始めた。ソワソワしている犬を見ながら、春明は小さく溜息を吐いた。
「まだ決まった訳じゃない、可能性があるだけ。……ちょっと準備するから」
「早くしてね!」
犬の急かす声を聞きながら、春明は物置として使っている部屋へと入った。
短銃と布を被っている細長い棒状の物を手に取った。使い易い様にホルダーに入れて、布が被った状態のまま剣を腰に差すと春明は部屋を出て鍵を閉めた。
何か口にしようと思っていたが、緊急事態だった為にそれは出来なかった。
犬の元へと戻れば、尻尾を追い掛けている様に見えた。不安な気持ちの表れだろうか?
その姿に一言声を掛けて、外へと出ようとすれば犬は呟く様に春明に問い掛けた。
「ねぇもし、マグがさ……――襲ってきたら殺す?」
視線を落とせば、心配そうな眼で春明の表情を窺う犬がいた。
そんな犬を見ながら春明は何も言わずに目を細めた。その表情に犬は戸惑いを見せた。
家から出て、鍵を占めながら春明は小さく返した。
「人の感覚が消え失せたなら、――殺す。……それが俺の仕事だから」
その答えを聞いて、淋しさを感じている様な表情で犬は春明の背中を見詰めた。
そのまま春明の隣に並んで歩いていると、小さな呟きが聞こえた。
「情報提供を条件に保護をするって約束……したから」
守れない約束はしない、そう言った春明を見て犬は嬉しそうな表情を浮かべた。
気を取り直した犬は、マグの臭いを探して春明の前に出た。
機嫌が良いのか尻尾を振って歩く犬の後ろを追って、早朝の街を歩いた。
ちらほらと開店準備をする店も見えるが、久しく開けていないシャッターの閉まり切った店が立ち並んでいた。寂れたシャッター街を歩いていると見慣れた白が視界に映った。
それを発見した犬は嬉しそうに駆けて行った。
「まぐまぐまぐまぐまぐまぐ――! マグロは中トロが好きー!」
そう叫びながら、犬はマグに体当たりをする勢いで跳び付いた。
軽くよろめきながら振り返ったマグは、犬の存在を視界に納めて驚いていた。
その表情はまるで、視界に入れてから犬の存在に気付いた様だった。
「あ……、ワンちゃんおはよう、ございます。安部さんも」
にこり、と微笑んだマグの頬には大きな青紫色の痣があった。
痛々しいその姿を見て犬は狼狽えて、春明は興味深そうに眼を細めた。
二人の視線が頬に集中した事に気付いて、マグはその痣を繊細な指付きで撫でた。
その行為は傷痕を労わる様にも見えたが、何処か愛おしそうにも見えた。
そんな表情を見て、春明の眉間に皺が寄った。
「……その痣、どうした?」
春明がそう問えば、マグは動揺した様に視線を泳がせた。
焦ったマグは小さな声で返事を返した。
「こ……転んでしまったんです」
春明へと視線を向ける事も無く、落ち着かない様子でマグは俯いて手を前で組んだ。
その姿を見て春明は鼻で笑う様な態度を取った。
「へぇ? 転んだ……ね。ずいぶん激しく顔面から着地した訳だ、器用にも擦り傷無く」
春明の言葉を聞いてマグは肩を跳ねる様に震わせた。
ばつが悪そうな表情を浮かべて、俯いていた顔を上げるとマグはそっぽを向いた。
「それとも室内で転んだわけ? 顔面から器用に着地する程の転び方したのに?」
「別に! ……何が理由だろうと良いじゃないですか。私、用が有るのでこの辺で失礼します」
憤慨したのか、口調を荒げて言い返すとマグは足早に去って行った。
口元に手を当てて考え込む春明を見上げて、犬は言った。
「なんか言い方がやらしいね! ……マグちょっと変だったでしょ?」
「……少し、埃臭かったな」
唐突にそう言った春明に、犬は呆気に取られた様に返事をした。
魂の抜けたような感じだと聞いていたが、あまりそうとは感じられなかった。
普段よりも怒りっぽくなっている様には感じたが、どういう事なのだろうか? もし、マグも祓魔師を探しているのだとしたら、自分を見付けたからかもしれないな、と春明は考えた。
「……アイツの仕事って、埃臭くなる様なやつ?」
春明はそう問い掛けながら、犬の方へと視線を向けた。すると犬はひっくり返っていた。
唸りながら、地面に体を擦り付けてじたばたと暴れていたのだった。
「……蚤でもついてんの?」
「違うわ! 蚤なんかついて無いわ、失礼しちゃう! ……ただなんか思い出せそう」
暫く犬はその状態で唸っていたが、思い出せそうに無い様で立ち上がり溜息を吐いた。
それでも諦めきれないらしく、今度はグルグルと尻尾を追い掛け始めた。
本物の犬の様な行動を取る犬を見て、春明は溜息を吐いた。
「早く思い出せよ……、というかそのうち本当に犬になりそうだな」
呆れた様な雰囲気で春明は呟くと、マグの去って行った方向へと足を延ばした。
グルグルと回っていた犬だったが、漸く春明が居なくなったことに気付いた。
急いで春明の後を追い掛けた犬は、泣きそうになっていた。少し走ればすぐに見付かった。
「置き去りはナッシングでしょ! 保健所に連行されたら責任取って引き取ってよね!?」
「そんな事はどうでも良い、早く臭いを辿れよ」
専横な春明の言葉を聞いて、犬は文句を垂れながらもマグの臭いを辿り始めた。
臭いはシャッター街を抜けて、潰れてしまったのか錆びて廃れてしまった工場まで続いていた。
その工場は草木の陰に隠れる様に存在していた。
廃材や粗大ごみ、様々な物が蔦を絡んで敷地内に放置されていた。
そんなごみや草木の陰に身を潜めて様子を窺った。
「おぅ、埃臭いな……」
「廃工場なのに人が居るな。不良のたまり場では無さそうだけど……」
まるで見張りの様に男性が立っていた。中肉中背で何処にでも居そうな普通の中年の男性だ。
一人なら窓辺まで気付かれずに移動できそうだ、そう思い春明は身を屈めて、行動に移そうとした。だがそれは出来なかった、隣で埃臭いと呟いていた犬が大きく息を吸ったのだ。
そして犬は「ふぁ……クシュッ」と大きな音を立ててくしゃみをした。
「だ、誰だ!?」
そんな音を聞いて気付かない訳が無く、男性は春明達が隠れる草木の陰へと視線を向けた。
春明は一切の表情を消して、犬の頭を軽く叩いた。
本当は思いっきり叩きたい気分だったのだろう、その手は少しだけ震えていた。
内部を把握しておきたかったのに、そう思いながら苛立ちを溜息と一緒に吐き出した。
「ごめんマジごめん、本当にごめん。なんて言うかごめん」
犬の謝る声を聞きながら、春明はもう一度だけ陰から様子を窺った。
男性は確かめるように叫びながら、こちらへと近付いて来ていた。もう誤魔化せない様だ。
春明はもう一度だけ溜息を吐いて、木陰からのそりと気だるげな様子で歩み出た。
その姿を視界に入れた男性は大層驚く、そして春明を睨み付けた。
「お、お前! エクソシスト……か? 何しに来た!?」
声を荒げて聞く男性の手元には木材が握られている。
やはり見張り役なのだろうか、そんな事を考えながら春明は周囲を窺いつつ男性に声を掛けた。
「……少し、この辺りの見回りをしていたのですが、最近急に寒くなって風邪を引いたみたいで、――驚かせてしまい申し訳ありません」
男性を落ち着かせる為か、普段よりも出来るだけ優しい声色で喋り掛けた。
武器を持っていない事を示す為に、春明は両方の掌を見せて慣れない笑みを作った。
「此処は廃工場ですか? こういう人気の少ない場所は危険ですから……」
慣れない笑顔を浮かべている所為か、顔が痛い。
今すぐにでも笑うのを止めたかったが、男性は怪訝そうな表情で春明を見ていた。
この話し声は中にまで聞こえているだろうな、と思うと頭が痛くなった。
「此処に居るって聞いて来たんだろ!?」
「いえ、その様な事は……。もしご協力願えるなら工場内を拝見させていただきたいのですが、強制ではありませんから、嫌でしたら帰りますから」
困った様な表情で話を進める春明は、まるで別人の様だ。
「すみません、今日の所は引き取りますから」
まるで毛を逆立てて警戒する動物の様な男性に謝って、春明は背を向けた。
その途端に作り笑いを崩して、春明はうんざりした様な表情を浮かべた。
その変わり様が面白かったらしく、犬は笑いを堪えて震えていた。
背を見せた春明を見て、男性は手にした木材を強く握って呟いた。
「ふざけやがって、そうやって油断させようって魂胆なんだろ……!」
弾かれた様に顔を上げた男性の瞳には、確かに殺意が籠っていた。正気を失った様なギラギラと濁った瞳でしっかりと春明を捉えて、男性はその背後に走り寄り腕を振り上げた。
ドクドクと大きな音が聞こえる、耳元に心臓があるのでは無いかと錯覚しそうだった。
振り下ろした木材が当たってしまう、そんな事を考えて男性は来たる感触に恐怖して目を瞑った。それは当たる事は無く空回り、一瞬の浮遊感と衝撃が体に掛かる。
木材を奪われて、腕を捻り上げられる感覚に男性は目を開いた。
「背後から殴り掛かろうなんて殺意があると判断します、……正当防衛です」
小さく呟かれた無機質な声と、痛みに男性は表情を歪めて呻いた。
悔しい様な、安心した様な、恐怖した様なさまざまな感情が入り混じった。
剣を入れていた細長い布で男性の腕を縛り上げて、邪魔にならない様に木陰に転がした。
改めて剣を腰に差していれば犬が近付いてきた。
「大丈夫?」
その声に答え様と口を開いたが、それは第三者の介入により口を閉ざす事となった。
「困っちゃうなー、俺が調教した犬なのになんて事してくれてるのかな?」
工場の方から聞こえてきた声に表情を顰めながら、春明は視線を向けた。
そこには色白な男性が立っていた、見覚えが有る様な気がして春明の眉間にさらに力が入る。
その男性の背に隠れる様に立つマグは、責任を感じているのか俯いていた。
マグがどの様な表情をしているか、こちらからでは窺う事は出来ない。
男性は人の良さそうな、爽やかな笑顔を浮かべて春明に笑い掛けた。それが不快に思えた。
「憶えてる? 俺等って久しぶりなんだ。十一年ぶりくらいかな?」
「あの時は油断してたかも」そう言う男性の表情はとても楽しげだった。
その表情は子供の様で、無邪気さが漂う。だがその男性の記憶は無い、春明は内心苛々とした。
そんな苛々に舌打ちを打って、春明は鞘から剣を引き抜いた。
すらりと伸びる白刃が、太陽光を反射する。
「忘れちゃったかな? ははっ、俺はよーく憶えてるよ、粘着質なんだよね」
「……それは如何でも良い。重要なのはお前が被害者に暴行を加え、洗脳を施し祓魔師を襲わせた首魁か否か」
発言を一蹴された事が気に障ったのか、男性は目を細めた。子供の様な笑顔を一転させて、艶っぽい表情へと変化させた男性は春明を値踏みする様な視線で全体を舐める様に眺めた。
その視線を不快に思ったのか、春明の表情が面白い程に歪んでいった。
「祓魔師の制服ってさぁ……、体にぴったりしてていやらしいよね。キミはもう少し太った方が色っぽくなるんじゃない? 俺もその方が好きだし」
「――……質問に答えろ、最近の祓魔師連続殺傷の件もお前がやったわけ?」
男性の発言を聞いて、春明の眼は醜穢な物を見る様な目付きになった。
忌々しい物を見る様なそんな態度を取られたにも拘らず男性は、至極嬉しそうな表情だった。
「どうだったかな、そうだったかもね。だって弱かったからしょうがないよね、遊んだらすぐ壊れちゃう様な貧弱なのは必要ないよ。俺自身にも、俺の雇い主さんにもね」
「キミはどれくらい耐えてくれる?」男性は恍惚とした表情を浮かべて春明に問い掛けた。
それは生理的に受け付けられる物では無かったらしく、春明の顔色は最悪だった。そんな態度すらも彼にとっては興奮する一端なのか、もうすっかり無邪気さは顔を引っ込めていた。
「気持ち悪い」そんな小さな呟きが聞こえたのは、隣に居た犬だけだった。
「そう言えば新しい玩具を捕まえたんだよね、弱いくせになかなか強情でさ。薬とかは俺のポリシーに反するから使わなかったからかまあまあの出来上がりなんだよね」
「……玩具って、いやそれより薬って、いや……出来上がりって何さ!」
何処から突っ込めばいいのか、判断に悩んだ様で迷いながら犬は叫んだ。
彼はお喋りが好きなのか、にこにこした笑みを浮かべて答えた。
「まあ色々あるよね、依存性高いと調教も楽なんだけどね。なんかそれって薬に依存してるだけで俺の事どーでも良いみたいだから嫌いなんだよね」
そう言うと男性は、背に隠れる様に立っていたマグの肩を抱いて引き寄せた。
仲が良さそうな、そんな雰囲気を男性は醸していたがマグの顔色は真っ青だった。
「恐喝と脅迫と暴力なんてDVの常用句だ! 頭おかしいよ、絶対」
「だってさ? でも同意を得てるし、ちょっとだけ殴っただけでそんな酷い事を言わないでほしいよね。一種のハードプレイでしょ?」
「俺は意外と貞潔だからさ、そう言う事はしてないし」と男性は笑って言った。そもそも、先程の男性の会話を聞いていて彼が同性愛者だと思っていた犬はその発言に驚いた。
そんな会話を一切聞かない様にしながら、春明は難しい表情を浮かべていた。
春明が動こうとした時に男性はマグを引き寄せて、自然な動きで彼女を盾にしたのだ。
これは中々に厄介な相手だな、と思い小さく溜息を吐いた。
「ねぇ春明君、俺の事よーく聴かなくって良いの? 別に良いなら、遊ぼうよ」
「これで」と言いながら手を置いたのは、マグの頭の上だった。
それに驚いたのか、マグの肩が跳ねる様に震えた。
表情を顰める春明を笑いながら見つつ、男性はマグに囁いた。
「倒せば要らないんだって、好きにして良いって言われてたけどその権利キミに上げるよ」
「どうすれば、楽になるんだろうねー?」と男性が笑えば、マグは落ち着かせる為か手先を口元へとやった。だがそれはあまり意味の無い行為に思えた。
「俺はね、彼にはいっぱいお休みが必要だと思うなぁ。ねぇ? 良いと思うよね」
その口調は優しげだ、だがその声色が異常だと思わせる程に雰囲気は鋭い。
動揺して、迷っている様なそんな姿を見て男性は言った。
「まあ、別に良いんだよ。俺がやるからさ、そうしたら俺が彼を好きにできるよね?」
「ま……待って、待って」
小さく囁く様な、泣きそうな声でマグは彼を引き留めた。
ずっと後ろに回していた手は、武器を持っていたらしく胸の前でその鉄パイプを両手で強く握った。それは祈る様な、ポーズだった。
「わ、私……――私できます!」
その叫び声は、悲痛な色に溢れていた。