03
――翌日、真剣を通り越して、険しい表情でマグは寝具を睨み付けていた。
そんな後姿を春明は詰まらなそうに、そしてどことなく気分が悪そうに眺めていた。
悩んでいるのか唸るマグに、春明は溜息交じりに言葉を掛けた。
「お前は一切、吸血しなくても平気なのか」
春明にとって、それは一番重要な事だった。
そんな問い掛けを聞いて、マグは悩みに俯いていた顔を上げて春明へと振り返った。
春明の表情は何を考えているのか分からない。貼り付けられた無表情は、少し恐ろしい。
そんな表情で見下されて、マグは少々顔を俯かせた。
「それは、……私を殺すか殺さないかの判断材料になります?」
マグの問いに答えを返さず、春明は微かに目元を細めるだけだった。
表面に出さない様に、取り繕われた拒絶が微かに顔を見せていた。見下す眼差しは冷たい。
それを見たマグは複雑な表情だった。汚らわしい物を見る様な、そんな眼を向けられるのは初めてではないが、やはり心苦しい物があった。
そんな意識を逸らす為に、マグは目の前の寝具へと視線を向けた。
「そう、ですね……。――吸血しなくても、生きていけます」
その答えを聞いて、春明は僅かに安堵した様な表情を見せた。だが一瞬でその表情を消した所為で、マグは見る事が出来なかった。
何を考えているのか分からない顔に戻した春明は、すぐにマグから視線を逸らした。
視線を逸らした春明は、何処か詰まらなそうな雰囲気を醸していた。
そんな春明を横目で見ながらマグは、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「どころで、……あの」
言い辛そうな雰囲気で少し言葉を濁らせてから、改めて顔を上げて春明を見た。
その表情は真剣そのもので、何か秘密でも打ち明ける様な表情にも見えた。
「お幾らなら許されるんでしょうか……?」
心配そうな声色で、春明の様子を窺いながらマグは聞いた。
そんなマグを一見して春明は、彼女が見ていた寝具の値段を確認した。
春明は癖なのか、口元に手を遣ると眉間に皺を寄せて考え始めた。
そんな春明を横から見ていたマグは緊張か、脈打つ心臓を服の上から手で押さえた。
「別に……、どれでも良い。さっきから見ていたそれで良いだろ」
マグは春明の言葉を聞いて、微かに目を丸くした。
少し驚いた様な、そんな雰囲気でマグは寝具の値段を確認した。
「安部さんって……ブルジョアジー? 他人にポイッと出せる値段じゃないですよ……!」
貧乏人故の性かマグは信じられない、と言った様子で春明を見詰めていた。
そんな目で見られた春明は、面倒臭そうに溜息を吐くとマグに背を見せた。
「じゃ……、買わない」
さっさと出て行こうとする春明に、マグは慌てて縋り付いた。
底辺中の底辺なマグに新しい寝具を買う財力は無い。ここで買って貰わねば、冬の厳しい時期を床で寝ないといけなくなってしまう。それだけは避けたい。
「ごめんなさい! ごめんなさいっ! 許してください! 御慈悲をください!」
必死な形相で縋り付かれて、春明は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「じゃあそれで良いだろ、一番品質が良いやつ」
「えっ、それはちょっと……、一番安い奴で良いです」
春明が指差した物を見て、マグは顔色を悪くして拒絶した。
そんなマグに春明は不満そうだった。
「……一番良いやつで良い?」
一応は礼の積もりだったからか、春明は疑問符を付けたような口調だったが、有無を言わせない声色でマグを脅した。少し意地になっている様に見えた。
睨まれて脅されたマグは、怯えた様に俯くと肯いた。
「そ……、それで、いいです……」
結局マグは寝具の全てを高品質で、高価格な物を買ってもらってしまった。
少々嬉しいという気持ちが見えないでもないが、とてつもない罪悪感の様な物を感じていた。
表情を曇らせたりご機嫌取りでもする様に笑ったりするマグを、春明は珍奇な物でも見る様な眼でそれを眺めていた。表情は全く変わっていないので、マグは気が付かなかった。
その後何かをする訳でも無く帰る事になり、一人でも帰れるとマグは主張したのだか、監視だからと言われてしまい、二人は何故か同じ道を歩いていた。
家へと帰るまでの道程はとても静かで、車の出す騒音が遠くの方で聞こえる程だった。
マグの現在の心境は、一緒に帰るなんて微妙に嬉しいけども恐怖、だった。緊張していたマグは変な行動をしていないか心配していたが、すでに変な物として見られていた。
そんな中、意外な事に買ってあげた物は全て春明が持っていた。
見た目に反して春明はエスコートが出来るのか、とマグは驚いていたがそれは違った。これが無いとマグが困る事が分かっていた為、春明はこれで逃げない様に制限しているだけだった。
本当に春明は監視の為について来ているだけで、色気もへったくれも無かった。
微妙な緊張感が走る中、春明は静寂を切ってマグに声を掛けた。
「……弱いよな、お前」
何か意味を含む様に呟かれた言葉を聞いて、その言い方にムッとしたが否定はしなかった。それが無意味な行動であると、理解していたからだ。
それでも不機嫌そうな雰囲気は隠しきれずに、マグは言葉を返した。
「そうですねー、それがどうしたんですか……」
そんな様子のマグを気にも留めずに、春明は続けた。
何時もの様に口元に手を遣って、呟いた。
「隠れていた……、訳では無いな。武器を持っている訳でも無し、仲間? 情報?」
マグは何を言われているのか理解できなかったが、暫くして理解した。
弱く、偶に吸血鬼に狙われるとも言っていたのに、何故生きてこられたのか、春明は疑問に感じている様だった。吸血鬼の世界は弱肉強食なのだ。
「あ……、えっと、両方? そう言う事について詳しい知り合いが居るんです」
それを聞いた春明の眼の色が変わった様な気がした。くすりと小さく笑う声を聞いて、あぁ死んだ、もといこれから殺される、とマグは当たり前の様に思った。
それは、興味引かれる対象が見つかって喜んでいるかの様な笑いだった。
「……へぇ?」
春明の楽しそうな声を聞いて、背筋に冷気が這い寄った様な、ぞわぞわとした寒気が襲った。
隣に猛獣が居るのかもしれない、そんな事を錯覚してしまいそうな程に恐ろしかった。
今すぐに逃げ出したかったが、寝具が無い生活はもう嫌だ。逃げられない。
今マグに出来る事は、恐怖に腕を抱いて震える事だけだった。
「そう言う事に詳しい知り合い……ねぇ? ……なあ、マグ」
「あ、えっ……!? な、なにようでございますか!?」
突然、本名ではないが、名前で呼ばれてマグは狼狽えた。
出会ってから日は浅いが、春明が人の名前を呼ぶタイプじゃない事は判っていた。
何か裏がありそうで、マグは嫌な予感がした。
「俺に殺されるのと情報提供して命の保障を受けるなら、どっちが好ましい?」
恐ろしい事をサラッと言いのけた春明の表情は、今まで見た中で一番清々としていた。
「ちなみに俺は吸血鬼なんて居ない方が好ましい」と呟く言葉は、脅し以外の何物でも無い。
勿論まだ殺されたくは無い、そう思ったマグは同意をしようとした。だが小さな音を耳が拾って気になった。それに春明も気付いたのか、マグの背後へと視線を向けていた。
聞こえた方向へと視線を向ければ、疲れ切った雰囲気の顔に大きな痣のある男性が居た。
「うわっ……痛そう、大丈夫ですか?」
不用心に近付こうとするマグを、春明は引き止めた。
「様子がおかしい」
その言葉の通り、男性の様子はおかしかった。
心此処に在らずと言った様な様子で、フラフラと歩いている。
道の端に寄って男性の邪魔にならない様に道を開ければ、彼は春明達の前を通った。
だが何かに気付いたかの様に、男性は足を止めると顔だけを春明達へと向けた。
「……あんたァ、祓魔師?」
囁く様な小さな声で問う男を、春明は睨み付けるだけだった。
その様子を見て確信したのか、男性は振り返って疲れた表情でへらりと笑った。
「あんたに恨みなんて無いんだけどさ、……認めてもらいたいんだよね」
そう呟いた男性は、ポケットに突っ込んでいた手を出して春明へと近寄った。
昼日中照らされる手元には何かが握られている、それはきらりと光りを反射していた。
面倒臭そうな雰囲気で春明は、突進する様に走ってきた男性を軽くいなして息を吐いた。
目標を見失った男性は、ぐらりとバランスを崩していた。
そんな無様な背中に強く蹴りを入れれば、男性はいとも簡単に地面へと膝を着いた。
強いその衝撃は男性を動けなくし、手の中の物を手放させた。
それが何かを目にしたマグは、目を丸くしていた。
「えっ……、ナイフ?」
マグは痛みに悶える男性へと視線を向けて、首を傾げた。
どこからどう見ても、男性が人に見えたからだった。祓魔師を襲う要素が見当たらない。
春明は無慈悲にも咽返る男性に、再度蹴りを入れて気絶させていた。
人間にも容赦ないんだ、とその光景を目撃してしまったマグは顔色を悪くした。
「に……人間ですよね?」
震える声での質問は一旦無視すると、春明は男性のポケットを探った。
財布を取り出した春明は、その中から免許証を取り出して眺めていた。暫くして男性の顎を掴むと、強引に上げさせて顔を確認していた。
「……最近取得したみたいだから、間違いなく最近までは人間」
吸血鬼は、免許証や厚生機関に属する物は得られない。
そもそも存在する事を認められていない、通常ならば何も出来ないのだ。
それだけでは彼が人間だと証明出来ないが、それでも人間である可能性は高まった。
春明はザッと財布の中に目を通すと、免許証は戻さずにポケットの中へと返した。
手にした免許証を弄びながら、春明は携帯電話を開くと耳に当てた。
暫く呼び出し音に耳を傾けながら、音が止まるのと同時に喋り出した。
「不審人物と接触、刃物を所持。祓魔師かどうかの確認を取られたのち、襲い掛かられた為応戦、人物は現在気絶中、人間か吸血鬼であるかの確認は取れていません」
免許証に書かれた情報を通話相手に告げ、現在の位置を告げると春明は電話を切った。
弄んでいた免許証は自らの胸ポケットに入れると、春明は落ちていたナイフを拾い上げて立ち上がった。きらりと陽の光を反射するナイフは、随分切れ味が良さそうで出来の良い物だった。
「……その辺で簡単に買える物では無いな」
デザインも洗礼されており、それは正しく武器として使用するナイフだった。
今時この様なナイフが一般人の手に出来る場所で売っていたとしても、刃が潰されている様な観賞用だろう。あるいは違法販売店ぐらいだ。
彼には明確な殺意がある、そう判断できるほど材料が揃っていた。
認めてもらいたい、男性はその様な事を口走っていた。首魁は祓魔師に対して恨みがあるのだろうか、ならば吸血鬼だろうか? だが、まだ分からない、何も分からない。
きちんと見れば顔の痣は生まれ付きなどでは無く、最近出来たものだと分かる。免許証に記載された顔写真にも痣は無かったので、これは明確な情報だ。
難しい表情を浮かべながら、春明はナイフを仕舞い込むと男性を放置して歩き出した。
そんな春明の後ろを、マグは慌ててついて行った。
「えっと……吸血鬼に詳しい知り合い、後で紹介しますね……?」
同意し損ねてしまった答えを、マグは今返した。
そんなマグの答えに小さく空返事を返すと、春明は口元に手を遣った。
ドラコの言っていた祓魔師連続殺害事件と、これは何か関係が有るのだろうか? 春明はそれを考えていた。そうであるなら、ここで止めてしまいたいと思った。
マグを送り届けた春明は、別れの挨拶もしないで急いで教会へと向かったのだった。
――朝方、まだ陽も昇り切っていない時間帯だ。
机の上で震える携帯電話の音で、春明は目を覚ました。布団から出ずに手を伸ばして、携帯を手に取った春明は電話を切った。これでまた眠れる、と思い春明は布団に包まって目を閉じた。
再び眠りに付こうとしたが、再度バイブレーションの音に起こされた。
不機嫌そうな表情で目を開いた春明は、仕方なく体を起こした。
「……はい」
掠れた低い声で不機嫌さを表しながら、電話を取った。
「おはよう春明、よく眠れてるかい?」
その声は春明が良く耳にする声だった。上司である助祭、喜美子からの電話だった。
シスターの所為で眠りが妨害されました、なんて言える訳が無く、春明は無言を返した。
布団から這い出て、素足でフローリングの上へと立てば寒さが足裏を刺した。
絨毯はやっぱり必要だな、と思った。何度も必要だと思っていたが、時間が無い事を理由に後回しにしているのだ。今回もきっと後回しにされるだろうが、やっぱり必要だと思った。
「昨日アンタが見つけたあれは紛れも無い人だったよ」
喜美子の言葉を聞きながら、台所に立った春明は電気ケトルに水を入れた。
水を沸かす電気ケトルのこぽこぽという音を聞きながら、春明は続きを促した。
「……それで?」
不機嫌そうな声を聞いて、電話越しに喜美子が笑っているのが分かった。
その笑い声に苛々していると、すぐに湯が沸いた。
「なんて言うかねぇ……洗脳? じゃないかねぇ、相当強力みたいでさ」
マグカップに即席珈琲入れて、湯を注いだ。立ち上る香りに、漸く目が冴えてきた。
熱い珈琲を胃に流し込めば完全に目が覚めて、春明は体を伸ばして凝りを解した。
欠伸を零せば、喜美子は咳払いをして真剣な声色で続けた。
「ああ、そうそう……顔だけじゃなくって体中痣だらけ。アンタが蹴ったとこも痣になってた」
「なんで俺が蹴ったのが分かったわけ?」
疑問を感じた様で春明は、すぐに喜美子に問い掛けた。
「アンタが蹴った所以外はさ、ちょっと違うんだよねぇ。棒状の物で殴られたみたいな痣でさぁ? しかも素肌に直接なんじゃないかねぇ……」
「やった奴は酔狂な奴だよ」と少し嫌そうな雰囲気で喜美子は呟いた。
確かに物好きというか、危ない人というか、アブノーマルな人物である事は間違いない。
「……棒状ね」そう小さく春明が呟けば、喜美子は欲しくもない答えをくれた。
「鞭とか鉄パイプとか、まあいろいろ?」
「そこまで詳しくは聞いてない」
不快そうな春明の声を聞いて、喜美子は笑いながら謝っていた。
「ここまで来ると洗脳よりも、調教? 全く何にも話してくれなくってさぁ、もし犯人と会ったら生け捕りにして欲しいねぇ。これじゃあ警察に引き渡せない、お茶もゆっくり飲めな」
話が長引きそうな予感がして、春明は電話を切った。あの後に続く話は、愚痴だけだ。
春明は携帯電話を片手にしたまま流しに寄り掛かると、溜息を吐いて少し冷めた珈琲を飲み干した。まだ早い時間帯だったが、春明は少し考えてから携帯を操作して電話を掛け始めた。
耳に当てれば呼び出し音が鳴っている、早すぎただろうか?
そんな心配をよそに、暫くすれば呼び出し音は止んだ。
「はぁい……なんですかー」
寝起きだからか、舌の回っていない様な声でマグは電話に出た。
話を始め様と春明が声を出せば、驚いた様な声が上がった。相手を確認せずに出た様だ。
「え……あ、……安部さん!? すみませんちょっと眠ってたから……」
慌てふためくマグを気にも留めずに、春明は用件を言った。
「吸血鬼に詳しい知人紹介して欲しいんだけど」
マグはその言葉を聞いて、戸惑った様に「今日ですか?」と聞いてきた。そんなマグに春明は「出来れば今日」と答えた。仕事があろうが用事があろうが、春明には知った事では無い。
何故なら春明が言った、命の保障をするとは、外敵から身を守るというよりも、死なない様に管理する、の方が適切だった。情報提供するなら、それに見合った報酬を出しても良いと思っていた。それを春明は口に出していないので、マグは気付いていなかった。
悩んでいたマグだったが、考えが纏まったのか呟いた。
「公園……、午後二時くらいに待っててください。連れて行きますので」
「あぁ、……助かる」
春明が小さく了承の声を呟けば、マグは電話を切った。
何も言わずに切った事を少し不思議に思ったが、気にせずに春明は冷蔵庫を開けた。
「本当に何もないな……」
金銭的に困っている訳では無い、この前買った食材達がどうなったのか少し気になった。
また買いに行かないと、と思ったが何だかやる気を無くしてしまい春明は、前日に喜美子に貰って机の上に放置していた焼き菓子の包みを開けた。
甘いそれを口に放り込みながら、溜息を吐いて春明は思った。このままでは生活習慣病を患ってしまう、それだけは避けなければいけない。避けなければいけないと思っていても、ついつい楽な方法で腹を満たしてしまうのだった。
「……やっぱり、なんか買ってこないと」
午後二時まで時間がたっぷりとある、二度寝をするなら帰って来てからでも十分だ。
考えを改めて春明は、急ぐ様に準備をすると部屋を飛び出して行った。
思い立ったら即行動しないと、ずるずると何もしないのは目に見えていたからだった。
主人公は甘味中毒