02
――現実逃避をしたいからと言って、吸血鬼の前で寝るなんて危機感が無いな、と春明は自身を嘲笑った。血が足りない所為で全ての事が億劫だった。
ゆっくりと起き上がれば、貧血の所為で眩暈がして世界がグルグルと回った。
眼を閉じたが、微かな灯りも目障りに感じて春明は片手で両目を覆った。
はぁと溜息を吐いて、落ち着くまで待った。
暫くすれば落ち着いて目を開いた春明は、腹部へと視線を落とした。
そうすれば視界に、血濡れで機能を果たしていなさそうな、固くなった包帯が見えた。
そんな包帯を外せば、ぽっかりと開いていた穴は無く、新しく形成された肉で塞がれていた。
まだ治り掛けの状態なのか、ドクドクと脈打っていた。それを見て春明は、気分が悪くなったのか表情を顰めた。顔色は死にそうなほどに悪い。
傷口の具合を眺めていると、ベッドの端に頭を乗せて眠っていたマグが身じろいだ。
「うっ……んん。あ……ええっと、安部さん! 起きたんですね!」
顔を上げたマグは、少々悩んだ素振りを見せたがにこりと笑った。
傷口を見たマグも、表情を顰めたが春明は気にせずに呟く様にして言った。
「……新しい包帯とかあったらくれないか」
視線を一切こちらに向けないで言った春明を見て、マグは不満そうな表情を浮かべた。
だがそんな表情をすぐに消すと、苦笑いを浮かべた。
「せめてこっちを見て言ってほしいですよ」
そう言ったマグは、すぐに部屋の隅の小棚を漁り始めた。
そんなマグの後姿を横目にしながら春明は、眠りに着く直前の事を思い出した。
「……狙われやすいんだって?」
「えっ!? ……寝ていたんじゃないんですか!?」
マグは驚きから、振り返ると少し声を張り上げた春明に聞いた。
その姿に少し笑えたが春明は表情には出さず、マグから視線を外した。
祓魔師って凄いなぁ、とマグは少々感心していた。
お目当ての包帯を取り出して、戻ってきたマグは春明に聞いた。
「巻きましょうか?」
マグの持っている包帯を見て、春明は微妙な表情を浮かべていた。
それに違和感を覚えていない様で、マグは首を傾げていた。
「なあ……お前さ、包帯は持っているのにガーゼとか持ってないの?」
マグは春明のその言葉を聞くと、動きを止めた。
その姿をみたら面白くなったのか、春明は小さく笑った。
笑われたマグは恥ずかしくなった様で、顔を真っ赤に染め上げた。
「わ……、う……。私は! 吸血鬼だから怪我なんて滅多にしないし! すぐ治るからわすっ、忘れてただけなの! たまたま、包帯だけ残ってて……、知らなかった訳じゃないです!」
「巻いとけば良いやって!」とマグは慌てて訂正していた。
その訂正もどうなのか、と思いながら、マグのその姿がさらに笑いを誘った様で、春明は笑いを深めた。「わざわざ危険を冒して祓魔師助けた癖に巻いとけば良いや……って」と呟きながら笑う春明を見て、マグはさらに顔色を赤くした。
「わ、笑うなあ!」と耐えられなくなったのか、マグはそう叫んで部屋を飛び出して行った。
それでもしっかりと財布を掴んでいく辺り、彼女らしいと言えた。
怪我人とは言え、祓魔師を家に置いたまま外出するなんて彼女も相当危機感が無い。
春明は仕方なく、代用品として包帯だけを巻いた。そうすればやる事が無くなってしまった。
マグが帰って来るまでの時間を潰す為、春明はベッドに寝転がり目を閉じた。
カチカチと時を刻む、秒針の音を追いながら時間を潰した。
――暫くして目を開いた春明は、時計を確認した。
もう既に一時間以上は経過していた、いくらなんでも時間が掛かり過ぎだろう。
春明はベッドから起き上がると、机の上に無造作に置かれた短銃を手に取り、弾数を確認した。
十分にある、これなら大丈夫だろう、と判断すると春明は立ち上がった。
血塗れで穴が開いていたが、仕方なく自身のシャツを着た。だがこれでは外に出られないな、と思った春明は部屋を見回した。自分の血だらけで穴の開いたジャケットを見付けたが、それでは意味が無い。血の跡等を隠せるものでないと意味が無いのだ。
春明は部屋で見付けた、マグが着るには少し大きすぎる古いジャケットを拝借することにした。
あまり良い部屋では無いし、お金が無いから安く古着を譲ってもらったのだろう、と思い弁償すれば大丈夫だと判断したのだった。
部屋の外に出て、辺りを見回したが白い影は無い。まだ帰って来ていない様だ。
吸血鬼なら走れば薬局ぐらいすぐだろうに、と春明は少し心配になったのだ。
傷の痛みはあまり無いが気持ち悪さが拭えない、冷たい外気に触れると傷口が疼いた気がした。
そこまで行動して、春明は動きを止めた。
なぜ、吸血鬼を助けようとしているのか、違和感を覚えて頭が痛くなった。
その事に気付いてしまい、動揺したのか心臓が嫌な音を立てて脈打っていた。
服の上から心臓を押さえ付けて、春明は自分を落ち着かせる為に言い聞かせた。
変な意味では無い、もし吸血鬼に襲われているのならばそれを駆除しに行くだけだ。
危険度が低い様に見えるから、危険度が高いのから優先して駆除しているだけだ。
助けるわけじゃない、彼女は餌だ。それに食いついた害獣を駆除するだけだ。
何も変な所は無い、それで良い、それで終わりだ。
彼女に友好的感情なんて持ってはいない。
そう言い聞かせれば、少し呼吸も楽になり心臓も落ち着いた。
気を取り直した春明は、夜の街へと身を投じたのだった。
――白い石膏像の様なマグの姿は、夜の街でも見えすぎる程に良く見えた。
自転車で全力疾走している様な速さで、マグは何かから逃げ惑う様に走っていた。
そんなマグの後ろに、近すぎず遠すぎない距離を保ちながら追いかける女が見え隠れしていた。
時折消えては現れる彼女も、マグの人並み外れた速度に付いて走れる事から、人間では無い事が窺える。前髪で隠れている所為で眼は見えないが、歪に弧を描く口元がその異端さを物語っていた。彼女は昼頃にマグを襲っていたあの女だった。
その女の服装は白っぽかったが、所々に付いた紅色で汚れていた。
とても急いでいたが、いつも以上に気を使っていたのにマグは見付かってしまった。
何故マグがまた女に見つかってしまったのかと言えば、彼女の吸血鬼らしさの欠落に因るものが大きかった。マグは吸血鬼らしさを失ったせいで、血の臭いに疎かった。
自分に春明の血の臭いがこびり付いている事に気が付けなかったのだ。
女の服装から察するに、どうやら先程まで吸血していた様なので、マグに吸血鬼らしさが残っていれば彼女に気が付けた筈だ。
「ふふっ……観念しちゃいなさいよぉ、どぉせアナタ……戦えないんでしょ?」
マグはその言葉を聞いて、確かにそうだ、と思い涙を零した。
自分の身すらも守れず、戦う力も有る筈なのにいつも誰かに助けて貰ってばかりだ。
自分を恥じ、甘さと弱さに泣いた。泣いてばかりじゃいけない事も分かっていたが、涙が止まらなかった。涙で視野が滲んで、マグの走りは僅かに遅くなった。
「ぅ、あっ!?」
女の手が遅くなったマグの肩を掴んで、強引に自身の方へと引き寄せた。
肩を掴む力は爪が食い込む程で、血が滲んでいた。
マグの体は女に寄り掛かる様に倒れ込んだ、耳元で彼女の息遣いが聞こえていた。
「もぉ……、手間掛けさせないでよねぇ、愚図ぅ」
耳元で聞こえた声に鳥肌が立ち、体が戦慄いた。
マグは彼女の腕を振り払おうと抵抗し、暴れ始めた。
「は、放して!」
その様な趣味は断じて無いが、別に殺されなければ血を吸われても構わない。
本質を奪われればマグも血を吸わなければ行けなくなるが、それは動物の血でも代用できる。
それも嫌ならば、少しの間我慢すればいいのだ。
だが彼女からは絶対に逃げなければならない、と本能が語っていた。
「アタシね、アナタみたいなの、……だぁい嫌いよ。吐き気がしちゃうわ」
甘い声色とは裏腹に、彼女は不快な気持ちを語っていた。
抱き着く様に密着して、首筋を這わせる指が気持ち悪い、とマグは心底思った。
「勘違いってやつ、悲劇のヒロインになったつもりなの? そういうのきらぁい……」
そう言うと女は首筋を這わせていた指を止めて、喉元へと爪を立てた。
爪が食い込んで、血が胸元へと滴った。息を飲む声が聞こえた。
「吸血鬼になったくせにぃ、血を吸わないで生きて力を使わないつもりぃ? 天使ちゃんにでもなるのぉ? あぁ、バッカみてぇ」
爪がどんどんと刺さって行く感覚が頭に伝わって、マグは逃れ様と我武者羅に暴れた。
そんなマグを見て、彼女は嘲笑って更に指に力を込めた。
「人より身体能力高いかもしれないけど、吸血してねぇ吸血鬼が普通に吸血鬼してる奴に勝てるわけねぇだろ、馬鹿みたい」
そう言われてマグは何を思ったのか、女の腕に噛み付いて溢れた血液を吸い上げた。
口内に入って来る鉄の味と鼻を抜ける臭いにマグは顔を歪めた。
「ちょっ、と! てめぇふざけんじゃねぇぞ!」
慌てた女は口汚く罵ると、マグを突き飛ばした。急いでハンカチを取り出した女は、マグに噛まれた部分をこれでもかと力を込めて必要以上に何度も拭った。
突き飛ばされて地面に膝を着いたマグは、慣れない血の味と喉元に力を加えられていた所為で咽返っていた。彼女は、そんなマグを睨み付けて咆えた。
「あぁ汚い! 汚いぃい! ムカつく! 殺す、絶対に殺す! 殺してやる! 汚いのよ!」
女がマグに向かって吠え立てる中、乾いた破裂音が辺りに鳴り響いた。
そうすれば胸元が熱くなる、じんわりと液体が広がる感覚がした。
胸元に広がる紅い染みを見て、女はふら付きながらも後ろを振り向いた。
「煩いんだよ……。近所迷惑、根暗なら根暗らしく液晶にでも向かって呟いていれば?」
女の咆哮を聞いて、走って来たのか額には大粒の脂汗が滲んでいた。
そんな春明を見て、女は目を丸くして驚いた表情を浮かべていた。
「なんで……? だって、アナタ怪我してるでしょ?」
その発言の意味が解りかねて、春明は口元に手を遣ると考える仕草をしていた。
発言の意味を理解したのか、女を馬鹿にした様な表情を浮かべた。
「臭いに気が付けなかったか? 後ろの白いのも同じ臭いがしていたから、だろ」
春明の言葉を聞いて、女はフラフラと立ち上がるマグを睨み付けて舌打ちを打った。
少しばかり彼女は、臭覚に頼り過ぎていた様だ。春明を睨み付けた女は、よろけながら笑った。
「アナタ達みたいに満身創痍な奴ら、本質無くても殺せるわよ。残念だったわねぇ?」
それを聞いた春明は、小さく音を立てて笑った。
だが辛くなって来たのか、電柱に凭れ掛けて春明は彼女に目を向けた。
「それは残念」と小馬鹿にする様な態度で、笑って言った。
そんな態度の春明を見て、彼女は怒りが湧いたのか叫び声を上げた。
「何がっ! おかしいの、よ……っ?」
最後まで叫びきる事は出来ず、力が抜ける様に女は地面に座り込んだ。
自分を襲う異変に目を丸くしながら、女は自分の体へと視線を落とした。
「祓魔師が丈夫だったとしても……、そのまま吸血鬼相手にできる奴なんて少数派だし」
そう言われて何かに気付いたのか、顔色を悪くして震えると自分の体を抱いた。
マグには何が起こっているのか、理解できずに首を傾げていた。
「教会で配給されている武器には、大抵は対吸血鬼用の毒が塗ってある」
辛いのを隠す為に、卑しい笑みを浮かべながら春明は語った。
だが顔色の悪さや脂汗などは全く隠せていないので、意味はあまり無かった。
「血が止まらなくなったり麻痺したり、細胞死滅したりするかもね」
その言葉を聞いて、マグも意味を理解したのか顔色を悪くした。
「本質を奪われて調子の悪い吸血鬼が撃たれたら……どうなるのか? 興味深いな」
そう春明は言ったが、あまり興味は無さそうに見えた。結果は分かっているのだろう。
死を間近に感じて、女は目に涙を溜めていた。座っている事も辛くなって来たのか、彼女は地面に倒れ込んでしまった。怒りを覚えて女は掠れた声で叫ぼうとした。
だが出てきた声は、弱弱しいものだった。
「死ぬ? 死ぬの? アタシ、が死ぬわけ? ふざけないでよ……!」
暫く足掻いていたが、彼女はピクリとも動かなくなった。
その光景を見ていたマグは、固まっていた。祓魔師の本領を見た気がした。
死んでしまったのだ、目の前で。恐怖でドキドキと胸が高鳴っていた。
ズルズルと座り込む音で、やっと現実に戻って来たマグは春明の方へと視線を向けた。
寄り掛かった電柱には大量の血が付着していて、座り込んだ春明は意識が無かった。
「あ……あ、安部さん!」
マグは一瞬戸惑ったが、春明に走り寄った。
支え様として春明に触れた時、彼の体温は服の上からでも分かる程に高かった。
傷の所為で熱が出たのだろう、と理解したマグは急いで春明を担ぎ上げ、ガーゼ等の入った袋を持って走り出した。こんな状態なのに、迎えに来てくれたのは心配してくれたからだ、と気付いたマグは少しだけ嬉しくなり、不謹慎ながら笑ってしまった。
マグは出来る限り、速く走った。
家に戻って、春明をベッドに寝かした時にマグは漸く気付いた。ジャケットが自分の物だった。
背負っても男性にしてはとても軽い、マグはダイエットをした方が良いのでは無いか、と危機感を覚えた。実際にはマグが太っている訳では無い、春明が痩せ過ぎているだけなのだ。
上着を脱がせると、穴の開いたシャツと赤く汚れた包帯が見えて、マグは土下座したくなった。
「……、こんな状態で無理をさせて本当にすみません……!」
泣きそうになりながらも、春明の傷の手当てを始めた。今度はちゃんとした手当だ。
本当に酷い傷の具合に、何度も頭を下げたくなったのだった。
――春明はその後、丸一日起きる事は無かった。
ベッドに突っ伏して寝ていたマグは、眼を覚ますと春明が居なくなっている事に気付いた。
出て行った事にも気付かなかったなんて、とマグは少し落ち込んだ。少しは気配やら音やらに敏感になったつもりなのに、祓魔師には敵わないのかぁ、と溜息を吐いた。
起きたマグは血塗れのベッドからシーツを巻き取ったが、下まで血が滲みていて酷い物に成り果てていた。それを見て微かに表情を顰めた。
「……やっぱり、包帯だけじゃ駄目ですよね」
これは全部新しくしないといけないな、と思いマグは深く溜息を吐いた。
中身の寂しい財布を思うと涙が出そうだった。
駄目になったベッドマットレスの上に、これまた駄目になったシーツを放り投げて、マグは台所へと向かおうとした。その途中で、机の上に書置きを発見したのだった。
流石の吸血鬼嫌いの春明でも、少し良心が痛んだのか、書置きにはジャケットと寝具を弁償するから何時でも構わないから連絡しろ、という事が書かれていた。
その下にはメールアドレスが記されていた。
「やっぱり優しい人なのかな……」
あの時の出来事を思い出すと少し怖いと思う、でも彼はそれが仕事な訳だし、うん。それにしても字が綺麗だ、とマグは書置きを眺めながら考えていた。
マグは暫く、その書置きをぼんやりと眺めていた。気が済んだのか携帯電話を取り出すと、マグは上機嫌な様子で春明へ送るメールを制作し始めたのだった。
――少し時を遡り、春明は東京にある大きな教会の様な施設を訪れていた。
その教会の様な施設の中はとても静かで、誰も居ないのでは無いかと錯覚を覚えそうだ。
「おはようございます、祓魔師教団日本支社本部でございます。ご用件は?」
機械の様に事務的に笑う受付嬢は、優しく通る声で言った。
春明は懐から変わった模様の彫られた十字架を取り出すと、受付嬢に渡した。
「祓魔師の安部春明、北関東支部に所属しています。確認をお願いします」
そう春明が言うと、受付嬢はにっこり笑って受け取った。
受け取った十字架を隅々まで確認をして、春明の顔を凝視した受付嬢は口を開いた。
「……担当の者が来るまで少々お待ちください、お返ししますね」
受付嬢から十字架を返してもらった春明は、受付から離れた場所にある木製の長椅子に腰掛けた。まだだいぶ顔色が悪い春明は、深く溜息を吐いた。
まだ塞がり切っていない傷口が熱く、疼いた気がした。
何故傷が塞がり切っていないのに、こんな遠出をしているのかと言えば理由があった。春明が服用していた紅い錠剤と、弾の補充に自身が配属されている教会へと訪れたのだが、彼の上司であり師匠であり、そして祖母の様に慕っている中年の女助祭は言った。
「あれはもう底を突いちまってねぇ、……無いのさ。しばらく休んだらどうだい?」
弾はあったのだが、薬が無かった。
仕事命どころか、仕事をしていないと生きていけない春明はそれを聞いて拒絶した。
無理をするな、と言われたが残念な事に本人の考えは、休むほうが無理をしている、だった。
そんな春明を見ながら助祭は、紅茶を一口飲んでから落ち着いたのか溜息を吐いた。
「なら自分で貰ってきな。勝手にしたら良いさ、アンタは今休暇中だよ。まったくアンタって子は本当に自分を大事に出来ないねぇ!」
それを聞いて春明は、喜んで教会を出たという訳だ。
休みが一日ならまだ春明も我慢できたかもしれない、だが彼女に任せていたら次の月まで補充はしないだろう。そうなれば当然、怪我が治るまで休まされる事は間違いない。
薬が無ければ完治まで時間が掛かってしまう、それはどうしても耐えられなかった。
だが春明は少しだけ後悔していた。休むのは嫌だが、傷が治っていない所為で今とても辛い。
流石に自分が馬鹿なんじゃないかと思えて、春明は溜息を吐くと壁に凭れた。
だがこうでもして動いていないと、無駄な事を考えてしまうから嫌だった。
傍から見ると春明は、今にも椅子から転げ落ちそうに見えた。
顔色は蒼白色で、息も荒く脂汗が滲んでいる。どう見ても重傷にしか見えない。
「……キミ大丈夫なの?」
そんな春明に、声が掛かった。視線を其方に向ければ、心配そうな表情の男性が見えた。
その人は日本人ではない様で背が高く肌が白い、アッシュブロンドの髪が印象的だった。
春明は身体言語で大丈夫だ、と伝える為に手を上げて軽く振ってみたが、どうやら正確に伝わっていない。挨拶と解釈された様で、人好きしそうな笑みを浮かべた男性に手を振りかえされた。
「無理はしない方が良いよ! 僕、丈夫だし分けてあげるね!」
男性はにっこり笑ってそう言うと、ピルケースを取り出した。
中から取り出された紅い錠剤は、春明が普段服用している物と同じだがサイズが違った。
一応は受け取ったものの、飲んで大丈夫なのか、疑っている様で表情を顰めた。
隣に座って男性は、倒れそうな春明を支えた。
「大丈夫だよ! ちょっと効果が強いかもしれないけど、死なないよ?」
「……ありがとう」
少し悩んだものの、確かに死にはしないだろう、と判断したのか春明は感謝の言葉を述べた。
それでもまだ悩んでいる春明を見て、男性は笑いながら背を摩りながら促した。
春明は決心した様で薬を口に含んだ。ちなみに市販されている薬や、病院で貰った薬等を飲む際はきちんと説明を受け、説明書を読んだ上で療法用量を正しく守り服用する事をお勧めする。
薬を飲み込んだ春明を見て、男性は笑顔を浮かべると自己紹介を始めた。
「僕はドラコだよー、キミは? 祓魔師……だよね?」
その問いに春明が肯けば、ドラコはますます嬉しそうな顔になった。
気分が悪そうな事は構わずに、お喋りを続けた。
「同じだね! でもキミは牧師もやってるの? 支社本部に祓魔師なんて滅多に来ないよ?」
疑問を覚えたのかドラコは、不思議そうな表情で春明を見た。
水分が欲しくなったのか、ドラコを尻目に春明は椅子から立ち上がった。失礼な態度だったがドラコに気にした様子は無く、自動販売機の前へと向かう春明の後を付いて行った。
「そう言うおま、……ドラコさんは何故此処に?」
フレンドリーな態度に、失礼にもお前と呼んでしまいそうになり春明は訂正した。
だがドラコは全く気にしていなかった。むしろニコニコとしていた。
「呼びやすい呼び方で構わないよ! そっちの方が仲良くなれたみたいで好きだからね」
隣へと移動して、身長の高いドラコは春明の顔を覗き込むようにして言った。
ドラコは細身だったが、近くで改めて見れば意外とがっしりとしていた。
最近日に日に体重が落ちている自分とは大違いだ、と春明は複雑な気持ちになった。
飲み物くらい高カロリーな物でも飲もうか、と考えているとドラコは金銭を投入していた。
「お近づきの印に奢るよ! これぞ正しく助け合いの精神だね!」
お近づきの印なのか、助け合いなのかはっきりしてほしい所である。
だが奢ってくれるとドラコが言っているので、春明は遠慮なく商品を選んだ。
ガコンと音を立てて、落ちてきた缶を取る春明にドラコは言った。
「ついでに俺のも取ってね」
その言葉を聞いて、落ちてきた缶珈琲を取ってドラコに渡した。
「ありがとう」とお礼の言葉を述べつつ、ドラコは春明の質問に答えた。
「あのね、僕はね。最近アジアとかで祓魔師を狙った連続殺人があった所為で足りなくなったんだって、だから補充要員?」
春明は温かいミルクセーキを飲みながら、その話を聞いていた。
「あー僕も甘いの飲みたくなってきちゃったー、カフェオレにすれば良かったかも」
「うー、でも珈琲買っちゃったし」とドラコは春明の様子を見て、缶珈琲を見ると呟いた。
ドラコが買った缶珈琲は無糖だった。
暫く悩むと諦めがついたのか、ドラコはにっこり笑って春明に「次はキミの番だよ」と言った。
飲み終えた春明は、渋々と言った様子で口を開いた。
「……仕事を休みたくなかったから、補充」
その言葉を聞いたドラコは意味が理解できなかったのか、きょとんとした表情を浮かべた。
グレーの瞳を瞬かせて首を傾げていたが、徐々に意味を理解し始めたのか笑い始めた。
ドラコが腹を押さえて笑う声を聞きながら、春明は最後の一口を飲み干していた。
「っく……春明は仕事馬鹿ってやつなんだね! 死にそうなのに補充の為に此処まで来たんだ! キミは最高に馬鹿だね!」
「体張ってるー!」とまだ大笑いしているドラコを見て、溜息を吐いた。
馬鹿だ、という言葉が否定できない。
「ひぃー……、上司は休ませなかったのかい?」
「……、……今休暇中」
春明の呟きがさらに笑いのツボを押したのか、ドラコはまた笑い声を上げた。
「やばいよ! 俺なら絶対にお休みしちゃう! キミって本当に最高な堅物野郎だよ!」
そこまで笑わなくても良いじゃないか、と春明は思ったのか少し不満そうだった。
不満そうな態度のまま、春明は気になっていたのか呟く様に言った。
「お前一人称が安定しないな」
「あー……ごめんごめん、気になるかい?」
春明の言葉にドラコは笑いながら何とか答えると、自動販売機に寄り掛かった。
変な呼吸をしているドラコに、春明は小さく「別に」と返した。
その時携帯電話が震えた事に気付いたが、後で確認すればいいか、と無視した。
ドラコから視線を外すと、ちょうど北関東支部担当の司祭が此方へ歩み寄って来るのが見えた。
春明はドラコに断りを入れてから彼に近付き、薬とついでに弾の補給を頼んだ結果、後日教会の方に送ってくれる事になった。
戻って行く後ろ姿を見送って、春明はドラコへと視線を遣った。
「ん、じゃあ帰ろうか! 外まで一緒に行こう!」
「俺の用事はもう終わってるからー」と春明に笑い掛けて、共に外へと向かった。
色々と話し掛けてくるドラコに、適当に返事を返しながら歩いていた。だが帰る方向は別々だった為、別れる事になったのだが、ドラコは話し足りなかったのか声を上げた。
「あ、そうそう! 最近アジアで連続殺人があったって行っただろ?」
そう言えばその様な事を言って居た様な気がすると思い、春明は小さく肯いた。
「それ日本でも出没するらしいから気を付けてね! じゃあまたね!」
そう言うとドラコは笑顔で手を振って、走って去って行った。
そんな後姿を見送った春明は、携帯電話が震えていた事を思い出して確認した。
知らないアドレスからのメールだったが、見てみればマグからだった。
弁償してくれると言う事なら、明日お暇ならどうですか、といった誘いだった。
まあ休暇中だしなぁ、と思ったのか春明は了承の旨趣と、お前の本質について詳しく聞くと綴り返信した。携帯電話をしまいながら、腹部に触れてみたが傷は落ち着いた様で、痛みも何も感じなかった。変な物じゃなくて良かった、と安堵した春明は一息吐いた。
帰る為に駅へと向かい、人混みを器用に避けて春明はプラットホームを歩いていた。
細心の注意を払い、避けていたのに春明は色白な男性とぶつかった。正確にはぶつかってきた。
「わっ、すみません! 気を付けます」
そう男性は謝るとそそくさと立ち去ってしまった。
春明はその男性の後姿を睨み付けると舌打ちを打った。彼からは微かに血の臭いがしたのだ。
顔が確認できなかったのは非常に残念だった。
それに男性は非常に気配が薄く、人とは思えなかった。
その男性は人混みに紛れて見失ってしまい、春明は諦めて電車に乗り込んだ。
「もう……やっと見つけた」
ぶつかってきた男性は、すれ違う時そう呟いていたのだ。
聞き覚えのある声の様な気がして、思い出そうとしたが不快な気分にしかなれなかった。
それは春明に向かって呟いたのか、誰かを見付けた事による独り言なのか分からなかった。
多少は良くなっていた気分が一気に悪くなって、春明は眉を顰めたのだった。
心なしか顔色も悪かった。