01
王道の吸血鬼物でグロテスクな表現と流血表現、暴力が多用されます。吸血、食人等々嫌悪を覚える方の観覧は推奨致しません。
燃える様な朱色の太陽が落ちた街は、暗闇が支配していました。
薄汚れた明かりの街灯と、小さく優しい家の明かりが暗闇の街を照らして揺らめく。
そんな暗闇の街は、魑魅魍魎が闊歩していました。
その暗闇の街に真っ黒で艶のあるコートをはためかせて歩く人がいました。
そんな貴方はこの夜の街を集めて形にした、悲しくて、優しい人。私にはそう見えたのです。
貴方にそんな気は無かったのかもしれません。それでも貴方は私を助けてくれたから。
だから、私も、貴方の為に何かをしても良いですよね?
――魔王が歌う夜の女王のアリア
この世界には、俗に言う吸血鬼と言われる人達が居た。
生きる糧として血を求め、肉を求める彼等はとても醜く醜悪で、おぞましい生き物なのだと教えられた。それが一般教養であり、常識だった。吸血鬼に噛まれれば吸血鬼になってしまう。
正確には吸血鬼と化した人物の体液が体内に入ると感染する――、と言った方が正しい。
それが常識だった。だが彼等も元は同じで、同じく感情のある生き物なのだ、と教えてくれたのはいったい誰だっただろうか? 彼等も泣いたり怒ったり笑ったりするんだよ、と教えてくれたのは――。ハッと現実に引き戻された。鼻を衝く鉄臭い臭いに青年は眉を顰めた。
強く握った自身の得物、白刃の細長い剣がぬるりとした血で汚れている。
今は仕事中だ、気を引き締めろ、と首を振って青年は歩みを進める。
彼の名前は安部春明、青年の仕事はそんな吸血鬼を退治することだ。今、彼は吸血鬼を追っていた。彼は吸血鬼を仕留めそこない、逃がしてしまったのだ。
焦燥感が彼を蝕む、傷を負った吸血鬼は殊更血や肉を求めるのだ。
不安と恐れが彼に付き纏う、今度こそちゃんと仕留めなければいけない。
血の臭いを辿って辿り着いた先にそれは居た。
酷く、濃い血の臭いが周囲を満たしていた。それは追ってきた彼に気付いたのか、振り向いた。
全身血に濡れたそれは今にも倒れそうで、息が荒い。
情けを掛けない、容赦もしない、訳は聞かない。素早く踏み込んで、懐へと潜り込んで青年は街灯の光を反して煌めく白刃の剣を振り抜いた。それだけで、それに致命傷を与える事が出来た。
その剣はとても切れ味が良いのだろう。それの首が宙に舞う。
ぐらりと糸が切れた様に倒れ込んだそれを見下して、彼は息を漏らした。
街灯に照らされた彼は色白で細身だった。黒いコートは彼等の仕事着だ。
早々に立ち去ろうとした彼の眼に、倒れ込む人影が見えた。
人影は、吸血鬼の餌食になってしまったのか、血に濡れた女学生だった。
近付いて確認してみれば胸が上下している、息をしている。彼女はまだ、生きている。
「……たすけて」
蚊の鳴く声よりもか細く、弱弱しい声で彼女は助けを求めていた。
そんな声を聞いて、彼の表情が不快そうに歪む。
吸血鬼の血で汚れた剣を振って、汚れを落とすと彼は彼女の喉元へとそれを宛がった。
彼女を殺さなければならない、彼女は吸血鬼になってしまう。そんな強迫観念が彼を襲う。
吸血鬼と化すことを止める術も、救う術も彼は持ち得ていなかった。
吸血鬼を殺すことしか、彼に出来る事は無かった。
「たすけて……」
小さな救いを求める声を聞いて、彼は何を思ったのだろうか?
白刃の細長い剣は切れ味が良いからか、柔らかい首筋に押し当てれば血が滲んだ。
痛みが無い様に、一気に引き抜けばいい、ただそれだけなのだ。
「――しにたくないよ……」
その声を聞いて、彼は一つ舌打ちを打つと首に宛がっていた剣を鞘に納めた。
彼女に視線を投げ掛けてから、彼は踵を返して歩き出した。
今殺さなくても何れは殺す日が訪れる、それなのに何をやっているのかと、そう思った。
痛む心を見なかった事にして、彼はその場を去って行った。
春明が彼女と最初に出会ったのは、この時だった。
――きちんと閉め切らなかったカーテンの隙間から明かりが射し込み、眩しく感じた。
朝陽、では無く夕陽が眼に痛い。子供達の騒ぐ声を目覚ましに春明は目を覚ました。
上半身を起こして布団から出れば、寒さで体を震わせた。
悪夢を見た所為か、べったりと寝汗でシャツが体に張り付いていた。最悪――、そんなうんざりとした気分を溜息と共に吐き出して、本格的に活動するべくベッドから降りた。
どんな悪夢を見たかは覚えていない、殺し損ねた吸血鬼の夢か、はたまた殺した吸血鬼の夢か。
毎日の事で覚えていられない、覚えていたら堪らない。
憶えていなくとも、そんな悪夢が彼の心を蝕んでいるとは、春明は気付かなかった。
これから先、何人もの吸血鬼を殺し、泣き叫ぶ声を聞けば済むのか、それを考えると胃の辺りがキリキリと痛む様な気がした。それでもやらねば成らない、それが彼の仕事であり彼の信じる正義だからだ。例え自責の念で心を蝕んだとしても止められない理由が彼には有った。
正当防衛だと、彼は自分に言い聞かせる事で心に蓋をした。
空腹を感じて、何か口にしたいと思った春明は冷蔵庫を開いた。だが何も入っていない。
冷凍庫を確認しても何も入っておらず、溜息が漏れた。
「……しょうがない」
電気ケトルで沸かした湯で珈琲を入れて、とりあえず胃の中に入れた。
それで空腹が満たされる訳が無く、悲しそうな音を立てていた。
面倒だ、と思ったがこれ以上体重を落とすと仕事に支障をきたすので、仕方なく春明は出掛ける為の準備を始めた。着替える為に部屋を移動して、クローゼットへと手を掛けた。
体に張り付くシャツを脱ぎ捨てて、適当に着替えると春明はジャケットを羽織った。
今は勤務中では無いのに、ベルトタイプのガンホルダーを無意識で付けている事に気付いて少々呆れた。職業病だろうか、だが短銃は持って行く事にした。
財布をポケットにねじ込んで部屋を出た。寝癖は手櫛で梳きながら、靴に足を入れる。
玄関戸を開けば、乾いて冷たい空気が室内に流れ込んだ。
もう冬も近い、冷たい風に身を震わせた。寒いのに子供は元気な物で、はしゃぐ声が聞こえた。
楽しそうに騒ぐ子供達を見て、春明は安心から一息吐いた。
この光景を守らなければいけないのだ、と春明は思った。
空腹を満たす為、冷蔵庫の中を満たす為に春明は買い物へと繰り出した。
――何事も無く適当に買い物を済ませ、ビニール袋片手に歩いていれば人だかりが見えた。
人だかりを見渡せば、その先に警察官が見えた。
それを見た春明は微かに表情を顰めると、警察官に見つからない内にそうそうと立ち去ろうとした。だが耳にした言葉が気になって、少々事情を探る事にした。
「通り魔ですって」
いかにも噂好きそうな、女性の声が聞こえた。
ひそひそと潜めた小さな声は、好奇心が抑えられない様で少々弾んでいる。
ちらりと視線を向ければ買い物帰りなのか、手提げ鞄と袋を手にした主婦らしき人物が二人見えた。片方は怯えている様に見えた。
「怖いね……」
「被害者は即死ですって!」
怯える女性を怖がらせ様としたのか、少し大きめな声で言えば彼女は見て分かるほどに肩を震わせた。声を張り上げた女性の満足そうな顔が見えた。
「心臓を一突きですって、どうも人間の犯行では無いらしいわ」
「それって、吸血鬼? やだぁ怖い、本当に意外と身近に居るんだね……」
「うそやだー……、ねぇそれって本当なの?」
二人の会話を聞いて、近くに居た女性も気になったのか彼女達に声を掛けていた。
噂の好きそうな女性は力強く肯いた。
「本当よ! 警察の人が言ってるの聞いたもの!」
「あなた私が来た時にはもう既に居たもんねぇ……、いつか痛い目見るかもしれないよ?」
「大丈夫よぉ」という女性の声を聞きながら、もう少し詳しく事情を知りたくなったのか、春明は人だかりの方へと歩を進めた。だが、途中で視界の隅に白いものが走り抜けるのが見えた。
春明は足を止めると、白が走り抜けた方向へと視線を向けた。
それが気にかかった春明は、白の正体を確かめるべくその方向へと向かった。
後を追えば、裏路地へと逃げ込む様に走り去ったその正体が分かった。長く真っ白な髪を一つに纏め上げた、全体的に白い印象の女性だった、
そんな怪しい真っ白な女性を追って、春明は足を速めた。
細い裏路地を逃げる様に走る女性を、気付かれない様に追っていると激しい物音が聞こえた。
警戒してガンホルダーから短銃を取り出して安全装置を外す、邪魔になった袋は音を立てない様にその場に置いた。何時でも撃てる様に、トリガーに指を置いて細心の注意を払いながら物音が聞こえた方へと走った。
そこに居たのは白い髪の女性だけでは無かった。
無雑作に伸ばされた長い黒髪の不気味な女もそこに居た。
一見悪霊の様な気味の悪い女は、その見た目に相応しいと言うべきか、白い髪の女性の首を絞め上げていた。相当な怨みの様な物を感じた。
咄嗟に黒髪の女へと銃口を向けて、春明は遠慮なくトリガーを引いた。
やはりと言うべきか女は人では無かった様で、人間業とは思えぬ動きで春明から距離を取った。
突然絞められていた首を解放された女性は、地面に倒れ込み咽返っていた。
黒髪の女は突然発砲してきた春明を睨み付けると、スーッとまるで幽霊が姿を消すかの様に消えた。春明から微かに戸惑いが見えたが、それを表に出さない様に気を遣いながら辺りを窺った。
暫く辺りを警戒していたが、気配も無く。警戒は解かなかったものの、春明は白い髪の女性に近付いた。
「おい」
「だ、っめです! あの人消えちゃう本質持ってるんです!」
どういう事か聞こうと口を開いたが、それは出来なかった。何故なら腹の辺りに衝撃が走り、目の前が揺れたからだ。恐る恐る視線を落とせば、青白い腕が紅い血を滴らせて生えていた。
込み上げてくる気持ち悪さに我慢できず吐き出せば、灰色の地面が赤黒く汚れた。
「ひっ、ゃ!」
顔色を蒼白に染め上げて、白い髪の女性は恐怖から身を引いて小さく悲鳴を上げた。
白い腕はずるりと引き抜かれ、春明の体の一部を外に掻きだした。
それは湿っぽく耳障りな音を立てて、地面へと零れ落ちた。
止めどなく溢れ出る血液を止める術は無く、春明は硬い地面へと身を落とした。
「ほんと、うざぁい……。邪魔なのよ」
耳を澄ませないと聞こえない程の小さな声で、春明の後ろに立っていた黒髪の女は呟いた。
その黒髪の女は、恐怖で固まって居る白い髪の女性へと向き返った。
前髪の隙間から見える口元は、緩く弧を描いていた。
「ねぇ……禁欲さぁん、アナタの……欲しいなぁ。ちょうだぁい?」
甘く囁く様な声はまるで、好い人に何かを強請る様な声色だ。
自分の手にべっとりと付着した血液を舐め取りながら笑う姿に狂気を感じた。
白い髪の女性は異様なその女の雰囲気に恐怖し、震えながら足を引いた。
「だぁってぇ……大変なんだもん。アナタのがあれば……大丈夫なんでしょ?」
痛みと大量に血液を失ってぼんやりする頭で、どうにかしなければいけない、と考えた。
倒れた時に放してしまった短銃へと手を伸ばすが、あと少しの所で届かない。
「いや、来ないで……」
恐怖で後退る白い髪の女性を一歩、また一歩と追い詰める黒髪の女は至極楽しそうだ。
白い髪の女性は恐怖で顔が引き攣っていたが、それとは対照的に黒髪の女は卑しく顔を歪めて笑っていた。狂気を演じているだけで、彼女はそこまで狂ってはいない様に見えた。
何とか手を伸ばし、触れた短銃を手繰り寄せた。構えようとしたが限界が近いからか、震えて力が入らない。そんな手で照準を合わせるのは難しく、何度も銃口がぶれる。
女が震える白い女性に手を掛けるのが見えて、少々自棄になったのか震える手先に無理矢理力を込めて引き金を引いた。乾いた銃声が鳴り響いた。
奇跡的にも女の腕を掠める事が出来た様で、彼女の視線が春明に向いた。
血の流れ出る腕を押さえながら、女は醜かった表情をさらに歪めて春明を睨み付けた。
乱れる髪が正しく本物の悪霊の様で、恐ろしい。
「あ……、あんたねぇえええ!」
黒髪の女は怒りに咆えた。
吠える女に向けて、数撃てば当たるという精神でまた発砲した。今度は足に命中したらしく、呻き声を上げて跪いていた。女は激しく歯を噛み締めて、春明を睨み付けると悪態を吐いた。
「この、くそッ!」
分が悪いと思ったのか、女は覚束無い足取りで逃げ去った。
それでもその走りは人間の何倍も速い。
女が逃げて行くのを見て、気が抜けた様で春明はそのまま意識を手放した。
「……あ、大丈夫ですか!? しっ、しっかりして!」
気を失っている事に気付いて、呆けていた女性は慌てて春明に近寄り声を掛けた。
酷い出血量と傷口にさらに顔色を悪くすると女性は、汚れる事も構わず春明を背負って走り去ろうとした。だが短銃が落ちている事に気付いて、慌てて拾い上げてから何処かへと走り去ってしまった。その場には大きな血溜と、中身の入ったビニール袋だけが残された。
――意識を手放した春明は、夢を見ていた。古い記憶だ。
彼が初めて吸血鬼を殺めた日だ。それと同時に大切な物を失った。
その時の彼はまだまだ幼く、吸血鬼がどういう物か、はっきりと理解していなかった。
春明には三つ歳の離れた弟が居た。弟は春明を慕って、春明はその弟を大層可愛がっていた。
だがある日の事、春明がまだ小学校に上がったばかりの事だった。
突然その穏やかな日々を壊す出来事が起こったのだ。両親は仕事でその日は居なかった。
無礼にも家に無断で踏み入ったのは、獣の様な吸血鬼だった。
まだ何か、忘れている気がする。
獣の様な吸血鬼は、飢えた野獣だった。腹を空かせた、狂犬だった。
弟はそんな狂犬に食べられた。
文字通り、そのままの意味で食べた。美味しそうに、玩びながら噛み千切った。
食い千切って、食べ散らかして、家を紅く汚した。
「フリードまだガキが残ってる、残しちゃダメじゃないか」
そんな声が聞こえて、弟を美味しそうに食べていた吸血鬼が顔を上げた。
弟の残骸は無残にも残り僅かとなっていた。
――ゆっくりと春明が目を開けば、見知らぬ天井が視界一杯に映った。
ぼんやりと天井を見詰めていると、爽やかな柑橘系の甘い香りが鼻腔を擽った。その匂いは悪夢を見て、落ち着かない心を癒してくれている様な気がした。
胸糞悪い悪夢は春明の胃をストレスでキリリと痛ませるには十分だった。
内容物が入っていない胃から、血生臭い臭いが込み上げてくる。胃に傷が付いてしまったのだろうか、とにかく気分が悪い。実際には胃が傷付いたどころの話では無い。
微かに滲んだ涙は、瞬きをすれば目元から流れた。
「あの……祓魔師さん、大丈夫ですか?」
心配そうな声が聞こえて、その方向へと目を向ければ心配そうな表情の白い髪の女性が見えた。
心配そうに春明の顔色を窺うその女性の眼は、血で染め上げた様な紅色だった。
それは吸血鬼の象徴だった、例外も居るが紅色の眼は吸血鬼の証だ。
春明の背筋にゾワッと嫌な感覚が走った。
「あ、あの……えっとぉ! 私マグって言います、あだ名ですけど。祓魔師さんの名前は?」
反応の無い春明に女性、マグは焦ったのか慌てていた。
そんなマグから視線を逸らして、春明は天井を見詰めた。
大怪我をしてしまった、これからどうしようか、天井を見上げながらそう考えた。
そして一番重要な所だ、吸血鬼に助けられてしまった。
グルグルと考えていると、気を失う前の事を思い出した。
マグは、あの女が消える本質を持っていると言っていた。本質……なんだっただろうか。
春明はその言葉を聞いた事があった様な気がしたが、思い出せなかった。
思い出せない事に苛立ち、焦燥感が募った。不安で胸が押し潰されそうになった。
思い出せないのでは無く、思い出さない様にしている事には気付かないふりをした。
知っている、分かっている。でも分からない。
「あ……、えっと喉渇いてますよね? 今水とか持ってきますね!」
無言に耐えられなくなったマグは、ベッドからでも見える台所に慌てて向かった。
ガラスが軽い音を立てて金属に当たる音、蛇口から流れ出る水の音を聞くと何故か少し落ち着いた。苛立って心が疲れたのか、瞬きをすれば涙が数滴零れ落ちた。
春明は気だるい体に活を入れて、無理に上半身を起した。
無理をした所為で腹の辺りに鈍い痛みが響き、春明は小さく呻き声を上げた。
腹の辺りを見れば、一応手当をしてくれた様で包帯が巻いてあった。
ガーゼも何も付けておらず、ただ包帯が巻いてあっただけだった。
治療方法が分からなかったのか、治療する為の物が無かったのか、判断に悩ましい。
包帯だけだった所為で、ベッドも包帯も血が染みていた。乾いた血がパリパリと音を立てた。
春明は小さく溜息を吐くと、ベッドの傍に置かれた自分のジャケットへと手を伸ばした。
ジャケットのポケットの中を探しているとマグが戻ってきた。
「あのー……お水」
マグが控えめに声を掛けて、水を差し出せば春明は無言ながらも受け取った。
受け取った事にマグは少々驚いていた。この人絶対に受け取らないだろうなぁ、と思っていたからだ。背に腹は代えられないってやつなのかなぁ、とぼんやりと春明を眺めた。
そんなマグの熱視線を受けながら、春明はポケットから取り出した紅い錠剤を水で流し込んだ。
薬を飲んだ春明は心の整理を付けると息を吐いて、マグへと顔を向けた。
「お前、本質、とか言っていたけど詳しく解説」
「えっ!? ……えっとぉ!」
マグは少し慌てた様子で唸りながら、考えを纏めようとして頭を捻っていた。
そんな様子を観察していた春明は、マグに空になったコップを差し出した。唸りながらもそれを受け取るとマグは無意識に台所へと足を向けた。
コップを流しに持って行ったマグは、唸りながらも“本質”に付いての説明を始めた。
「私も人に教えられた程度の知識しかないんですけど……」
そう断りを入れてからマグは喋り始めた。
「吸血鬼になったばかりだと準備期間が有るらしい……です」
コップを流しに置いたマグは、自分の言おうとしている事が正しいのか記憶と照らし合わせていた。そんな様子のマグの後ろ姿を見た春明は、石膏像みたい、と思っていた。
少し間が開いたがマグは振り返ると困った様に笑った。
「暫くすると体が完全に吸血鬼になる、すると本質が生まれるそうです」
「……それで? その本質とは?」
春明が冷たい声で聞くと、マグは少し肩を震わせて困った表情を浮かべた。
頬を掻きながら、マグは続けた。
「本質とはその人物の全てを表すもので、性格、精神状態、生活習慣、癖に影響されて異端な能力を発揮する。その能力は様々で肉体強化に始まり幻覚作用、錯覚、精神操作など様々なものがあるとされている」
「まあ簡単に言えば超能力です」とマグは要約した。説明口調が恥ずかしくなったのか「まあ全部受け売りなんですけどね~」と照れた様に笑って付け加えた。
春明はその情報を元に考えを巡らせているのか、口元に手を遣り険しい表情をしていた。
何処か気分が悪そうにも見えて、マグは少し心配になった。
「えっと私の本質は禁欲って呼ばれてるらしいです。吸血しないでも大丈夫なんですよー……」
そう少し控えめに発言したが、春明は深く考え込んでいるのか反応が無かった。
まだ説明していない物を思い出して、マグは慌てて言った。
「あ、っと……吸血にはお腹を満たす以外にも他に意味が有るんですよ!」
「……意味?」
小さく反応した春明にマグは肯いた。
反応が有った事が少し嬉しかったのか、マグはご機嫌な様子で喋った。
「そうです! 吸血をすると相手の本質を奪えるんです!」
「個性の様なものなのに、ねぇ……。あの悪霊も言ってたな、……ちょうだい」
ちょうだいの意味が本質の事だとしたらあの発言に違和感は無い。
溶けるように消えて、気配が無くなった彼女の本質とは何だろうか、と春明は考えた。
「あとですね、他人から奪った本質は体に合わない場合があるので使えない場合が多いんですよ、本質は奪われても暫くするとまた使えるようになります!」
「以上で私の知っている全てです」とマグは微笑みながらそう言った。
それを見届けた春明は、辛くなって来たのかベッドに倒れ込んで布団を被った。
その様子を見てマグは戸惑った様な声を上げた。
「あ……、えっと? 祓魔師さん?」
「……眠い、それと俺は安部」
そう言うと春明は限界だったのか、小さな寝息を立て始めた。
マグはその名前を刷り込む様に、大事そうに呟いていた。
少し経ってからマグは、春明が本当に寝ているのか確かめるべく近付いた。
「私の本質って意外と便利なんですよー、血を吸わなくても調子良いしー。偶に狙われるのが面倒ですけど」
そう呟いてみて、微塵にも反応が出ないのを確認するとマグは台所へと向かった。
そう簡単に嫌っている吸血鬼の前で寝る訳が無く、春明はその呟きを聞いていた。
ご機嫌なマグの鼻歌を聞きながら春明は考えていた。
思い出せないからマグに聞いてみたが、どれも聞いた事が有る様な気がした。
思い出さないといけないと思う心と、思い出してはいけないと主張する心があった。
そんな葛藤をしたくなくて、目を閉じた。無理矢理に眠りに付こうとすれば、疲れていたお蔭かすんなりと春明は深い眠りに落ちていったのだった。