75話 風魔が「何かがおかしい」と気づく前兆
――相模・海沿いの小屋
夜明け前。
潮の引く音が、いつもより早い。
風魔小太郎は、波止場を見下ろす高みに立っていた。
この時間、この場所。
来るはずの舟が、来ていない。
「……遅いな」
独り言にしては、確信があった。
いつもなら、塩を積んだ小舟が二艘、沖に影を落とす。
一艘は伊豆、もう一艘は房総。
名は違えど、流れは同じ――
風魔が“通している”流れだ。
だが今朝は、一本足りない。
「嵐か?」
背後で、若い者が首を振る。
「風は穏やかです。潮も悪くない」
小太郎は、指で顎を叩いた。
「じゃあ、止められたか」
その言葉に、若者が息を呑む。
「誰が?」
小太郎は答えない。
答えが出てしまうからだ。
代わりに、別のことを問う。
「昨日、鎌倉で何を聞いた?」
「……商人が、妙に静かでした。
値も、言い値を吹っかけてこない」
小太郎は、ようやく振り返った。
「それだ」
風魔は“騒がしい商い”で生きる。
値が荒れ、口が荒れ、争いが起きるほど、仕事が増える。
だが今は――
静かすぎる。
「誰かが“名”を被せたな」
「名……?」
「表に出ても、斬られぬ名だ」
小太郎は海を見る。
「刃を出さず、流れを変える。
忍びのやり口じゃない」
一瞬、脳裏をよぎる顔があった。
だが、すぐに打ち消す。
「伊賀なら、もっと血の匂いがする」
小屋の外で、鳥が一斉に飛び立った。
「だが――」
小太郎は、低く笑う。
「忍びを使って、忍びの外から殴る奴がいる」
「どうしますか?」
「まだ、何もしない」
そう言って、腰を下ろす。
「慌てた方が負けだ。
流れを作った奴は、必ず“確認”をする」
「確認……?」
「どこまで見られているか、だ」
小太郎は、潮の跡に残る一本の筋を見る。
それは、舟の跡ではない。
意図的に消された痕だった。
「……近いな」
その夜。
風魔の使いが、三方向へ放たれた。
伊豆の浜へ
鎌倉の市へ
そして――里見の境へ
だが彼らは、まだ知らない。
その“境”には、もう刃ではなく盾が立っていることを。
夜明けの潮は、静かだった。




