第64話 風と影 ――桜、伊賀へ
慈光尼の分析から数日後。
城の外れ、
桜たちの住まいにある小さな詰所。
夜更け。
灯明の火の前で、桜は一人、地図を広げていた。
北条領。
小田原。
相模・武蔵。
その端に、桜は小さく指を置く。
「……風魔」
誰に言うでもない独り言。
桜が恐れた“戦わない敵”
北条の強さは、城でも兵でもない。
「風魔は……
人を殺さなくても国を壊せる」
夜道で消える商人。
誤った噂。
不和を煽る言葉。
原因不明の火事。
戦が始まる前に、
すでに負けている――
それが北条の戦。
「正面からの備えじゃ、意味がない」
桜は理解していた。
これは兵の問題ではない。
これは影の問題だ。
必要なのは“同じ土俵の相手”
翌朝。
まな・慈光尼・桜の三人だけの密談。
桜は、はっきりと言った。
「対抗勢力が必要です」
「……忍び、ですか」
慈光尼が静かに問う。
「はい。
しかも、雇われでは駄目」
金だけで動く忍びは、
金で裏切る。
「信用と覚悟を持つ“家”でないと」
慈光尼は、少し目を細めた。
「……伊賀、ですか」
桜は頷いた。
「百地三大夫」
まなの目が見開かれる。
「伊賀惣国の――?」
「はい。
伊賀の“まとめ役”です」
商人という“橋”
問題は一つ。
「どうやって会う?」
伊賀は閉じている。
誰彼構わず会う相手ではない。
そこで桜は、一枚の覚書を差し出した。
「この商人を使います」
それは、
かつて椎茸と味噌、醤油を京へ運んだ者。
表向きは薬種と保存食の取引。
裏では――情報の仲介。
「商人は、戦をしない。
だから、境を越えられる」
慈光尼は小さく笑った。
「……見事な理屈ですね」
桜、動く
数日後。
桜は“商品検分”という名目で、
ごく少数の供回りと共に出立した。
護衛は最小限。
派手な動きはしない。
「見られている前提で動く」
それが、桜の判断だった。
伊賀へ向かう山道。
風が、妙に静かだった。
影の歓迎
夜。
焚き火を囲む一行。
その火が、
ふっと揺らいだ。
次の瞬間――
「動くな」
背後から、
低い声。
いつの間にか、
木の上、地面、岩陰。
“人”がいた。
気配がない。
音もない。
商人が、静かに名を告げる。
「伊賀の方と……
話を通してあります」
しばしの沈黙。
そして、前に出てきた男が一言。
「――百地三大夫様は、
“その子”に興味がおありだ」
桜は、恐れなかった。
ただ一歩前に出て、言った。
「北条の風魔と、
“戦わない戦”をしたい」
忍びたちの目が、
一斉に細くなる。
「……ほう」
風が、再び動き出した。




