第61話 手を離すという選択
その日は、
診療所に桜の声がほとんど響かなかった。
いつもと違う朝
野乃が薬棚の前で立ち止まる。
「……この配合、
昨日より少し軽くします」
幸恵が帳面を確認し、
香織が患者の顔色を見て頷く。
「熱は下がってる」
「食事、少し取れてるね」
それを、
桜は一歩引いた場所から見ていた。
口を出したくなる場面は、
正直、いくつもある。
(その順番じゃない)
(その薬、少し強い)
脳内で、
無数の声が会議を始める。
桜の脳内戦略会議(静)
「今なら止められる」
「教えれば早い」
「でも――」
「ずっと私が正解を言い続けたら?」
「彼女たちは、
私がいない時、
どうする?」
その問いが、
胸に重く落ちた。
曲直瀬道三の一言
道三は、
桜の横に立った。
「手を出さぬのは、
勇気がいるな」
桜は苦笑する。
「……怖いです」
「失敗するかもしれない」
「誰かが傷つくかもしれない」
道三は、
ゆっくり首を振った。
「医は、
完璧ではない」
「だが――
任せねば、
育たぬ」
決断の瞬間
昼過ぎ。
一人の患者の処置をめぐり、
野乃が迷った。
「……桜、どう思う?」
診療所の空気が、
一瞬、止まる。
全員の視線が、
桜に集まった。
いつもなら、
即答していた。
だが。
桜は、
静かに首を横に振った。
「……野乃が決めて」
その言葉は、
優しくも、
重かった。
責任者の背中
野乃は一瞬、息を呑み、
それから深く頷いた。
「……分かりました」
脈を取り直し、
薬を選び、
処置を指示する。
声は少し震えていたが、
手は止まらなかった。
結果は――
問題なかった。
患者は眠り、
夕方には笑顔を見せた。
夜の集まり
診療所が静まったあと。
桜は、
皆を集めた。
「今日から、
私は――
決めません」
驚きの声が上がる。
「考えることは、
続けます」
「支えることも、
止めません」
「でも、
決断は皆に任せます」
少女たちの反応
幸恵は唇を噛み、
香織は不安そうに、
野乃は、ただ真っ直ぐに桜を見た。
「……逃げません」
野乃は言った。
「桜が作った場所を、
壊したくない」
桜は、
小さく笑った。
「壊れたら、
一緒に直そう」
桜の独白
その夜。
桜は帳面に、
一行だけ書いた。
「教える者は、
いつか黙る」
「それが、
続く仕組みになる」




