60話 里見領に来た儒学者 ― 曲直瀬道三
里見領の診療所を訪れた男は、
まず、何も言わなかった。
曲直瀬道三。
京で学び、
医と儒を共に修めた男である。
彼は静かに、
ただ“見る”ことから始めた。
診療所の光景
そこには、
彼が想像していた「戦国の医療」はなかった。
呻く者の声を遮ることもなく、
金の有無で順を変えることもない。
「次は……この子から」
野乃がそう言って、
熱に浮かされた幼子の額に手を当てる。
幸恵は脈を取り、
香織は煎じ薬の火加減を見つめ、
桜は記録を取りながら、
静かに問いを重ねていた。
「昨夜は眠れましたか」
「食事は、どれほど」
誰も怒鳴らず、
誰も威張らず、
誰も“偉そう”ではない。
だが――
誰一人、迷っていなかった。
揺さぶられる魂
曲直瀬道三は、
胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
(これは……医だ)
学問でも、
思想でも、
権威でもない。
人を生かそうとする意志そのもの。
彼は、
これほどまでに“正面から医を行う場”を
戦国で見たことがなかった。
桜との短い会話
桜が道三に気づき、
小さく礼をした。
「先生は……医の方ですか?」
「……かつては、そう名乗っておった」
道三は正直に答えた。
「ここでは、
誰が医を決めているのだ」
「病と向き合う者が、医です」
即答だった。
曲直瀬道三は、
その言葉に目を伏せる。
(ああ……
儒を学んだ私より、
この子の方が、
ずっと“仁”を知っている)
まな姫との会談
その日のうちに、
曲直瀬道三は里見まなに謁見した。
「願いがございます」
まなは静かに促す。
「この診療所で、
医として働かせていただきたい」
家臣たちがざわめく。
「儒学者を、
しかも京帰りを?」
道三は一歩下がり、
深く頭を下げた。
「身分も、立場も、
問いませぬ」
「私は――
医療従事者としてのみ
ここにいたい」
まなの判断
まなは、
桜の方を一度だけ見た。
桜は何も言わず、
ただ静かに頷いた。
「……よろしいでしょう」
まなの声は、
姫としてではなく、
この地を守る者の声だった。
「里見の診療所は、
学問を誇る場所ではありません」
「それでも、
人を救いたいと願うなら――
共に在ってください」
曲直瀬道三は、
膝をつき、深く礼をした。
夜、道三の独白
その夜、
道三は灯りの下で筆を取った。
「私は、
教えるために来たのではない」
「ここで、
医を学び直す」
「この子らの背中に、
私の方が教えられている」
こうして里見領の診療所には、
後に「医聖」と呼ばれる男が
名を伏せ、肩書きを捨てて
加わることになる。
それは、
桜の医療改革が
「一過性の奇策」ではなく
本物の流れになった瞬間だった。




