55話 娘を残すと決めた夜
――里見義堯 視点――
夜更け、書院に残る灯は一つだけだった。
昼の評定が終わり、家臣も去り、
今この場にいるのは――里見義堯、ただ一人。
硯に向かいながら、義堯は筆を止めた。
(……重いな)
一国の進む道を決めることには慣れている。
兵を動かす判断も、国境を守る決断も、数え切れぬほどしてきた。
だが今宵の決断は、違った。
(娘を、残す)
政の駒として外へ出す道を、己の手で断ったのだ。
義堯は、ふっと息を吐く。
(楽な選択ではない)
縁組は、外交の盾になる。
血縁は、戦を遠ざける。
それを捨てるということは、
「この領は、武ではなく内から固める」
と宣言するに等しい。
(覚悟が要る)
視線を上げると、障子の向こうに夜の庭が広がっている。
幼い頃、
あの庭を走り回っていた小さな背中。
いつの間にか、
人の運命を背負う年齢になっていた。
(……まな)
義堯は、父である前に、領主だ。
だが今夜ばかりは、その順が揺らいだ。
(外へ出せば、守れたかもしれぬ)
争いの火種から遠ざけ、
政の重みから切り離すこともできた。
だが――
(それでは、この領はどうなる)
桜という少女の存在が、
この一年で、領を変えた。
物が流れ、人が集まり、
城下に笑顔が増えた。
その中心に、常に「人を繋ぐ者」がいた。
(あの子は、道具にならぬと決めている)
だからこそ、
まなを“道具”として使う道を選べなかった。
義堯は、ゆっくりと筆を取り、紙に書き付ける。
「里見まな
当分の間、里見領内に留め置く」
ただの一文。
だが、その裏にある意味は重い。
(この子を、守る)
同時に――
(この子に、背負わせる)
その両方を、己が選んだ。
義堯は目を閉じた。
(恨まれるかもしれぬ)
自由を奪ったと、
外の世界を見せなかったと。
それでも。
(それでも、今はこれが最善だ)
まなが逃げず、
桜が逃げず、
この領に根を張ろうとしている。
ならば、領主が逃げるわけにはいかぬ。
義堯は静かに立ち上がり、灯を消す。
闇の中で、心の中だけで娘に告げた。
(すまぬな、まな)
(だが――共に、この里見を守ろう)
父としてではなく、
一人の領主として、
そして――一人の男として。
その夜、里見義堯は、
「戦を減らす道」を選んだ。
剣ではなく、
人と人の繋がりによって。
それがどれほど険しい道か、
誰よりも分かっていながら。




