第50話「名を呼ばれる前に」
里見まなが呼ばれたのは、
いつもの座敷ではなかった。
人の出入りが少ない、
城の奥。
そこには、父・里見義堯と、
見慣れぬ使者が一人。
年若いが、装いは整い、
腰のものも品がある。
「まな」
義堯の声は、柔らかい。
「今日は、
一つ話を聞いてほしい」
使者が一歩前に出る。
「上総の某家より、
姫様への縁談にございます」
その瞬間――
まなの胸が、きゅっと縮んだ。
(……来た)
いずれは、と分かっていた。
けれど、こうも突然に。
「相手は、
武よりも家格を重んじる家」
「条件は良い。
兵も、土地も、
争いの芽は少ない」
義堯は、淡々と告げる。
それは――
“安全な縁談”だった。
「すぐに答えを出せとは言わぬ」
「だが、
姫自身の考えを聞きたい」
使者の視線が、
まなに注がれる。
部屋の空気が、重い。
(ここで黙れば……
流される)
(けれど、
拒めば……)
桜の顔が、ふっと脳裏をよぎる。
「姫様が、
ここにいていい理由を作る」
その言葉が、
背中を押した。
まなは、静かに口を開く。
「……少し、
お時間をください」
使者が、わずかに眉をひそめる。
「姫様。
縁は、待つものでは――」
「存じております」
まなは、はっきりと遮った。
「ですが、
私は里見の姫です」
「この国を、
知らぬまま去ることはできません」
義堯が、目を細める。
「理由は?」
まなは、一瞬だけ言葉を探し――
そして、正直に言った。
「私がいなくなった後、
この国がどうなるのか」
「それを知らずに嫁ぐのは、
里見に対して、
無責任だと思うからです」
沈黙。
やがて義堯が、
小さく笑った。
「……成長したな」
使者に向き直る。
「返答は、
しばし預かる」
使者は不満を隠しつつ、
頭を下げた。
人が去った後。
義堯は、まなに言った。
「選ぶ覚悟は、
あるか?」
まなは、深く息を吸う。
「……はい」
「私は、
守られるだけの姫ではいたくありません」
その夜。
まなは、桜を呼んだ。
灯の下、
二人きり。
「……ねえ、桜」
「私、
決めなきゃいけなくなった」
桜は、何も言わず、
ただ頷く。
「もし、
私がここに残る道を選んだら……」
まなは、少しだけ不安そうに笑う。
「あなた、
一緒に、地獄を見てくれる?」
桜は、即答だった。
「地獄なら、
整地します」
一瞬の沈黙。
そして、
二人は同時に笑った。
この夜、
里見まなは知った。




