閑話 里見まなの苦悩
春の風は、同じ庭に吹いても、
幼い頃とは違う重さで肌に触れるようになった。
里見まな、十一。
まだ髪を結い上げるには早いとされながらも、
周囲の大人たちは、すでに彼女を「誰に嫁がせるか」という目で見始めている。
(……もう、“姫”でいる時間は長くない)
扇の陰で、まなは小さく息を吐いた。
婚姻とは、祝言ではない。
この時代においてそれは――選択次第で戦を呼ぶ札だ。
里見にとって不利な家に嫁げば、
それは“裏切り”と見なされる。
逆に、敵対する家へと嫁がされれば、
それを理由に里見が兵を動かすこともある。
(私一人の行き先で、人が死ぬ)
その事実を、十一の少女はすでに理解していた。
父は言うだろう。
「家のためだ」と。
重臣たちは言うだろう。
「戦を避けるためだ」と。
だが、どこに嫁いでも、
避けられぬ戦は必ずある。
ならばせめて――
(選ぶなら、“意味のある場所”へ)
まなは、最近よく耳にする噂を思い出す。
目安箱。
流行り病を防ぐ薬。
鉛を避ける白粉。
女や侍女の命を、数としてではなく“人”として扱うという考え。
(……不思議な方)
名を思い浮かべるだけで、胸の奥がわずかに疼いた。
それは憧れか、期待か、それとも――恐れか。
「嫁ぐ日まで、どれほど猶予があるのか」
まなは、指を折って数えた。
十一。
早ければ、十三。
遅くとも、十五。
それほど余裕はない。
まだ学びたいことがある。
まだ、話したい人がいる。
まだ、何も決めきれていない。
けれど、この身はもう、
“里見の姫”という駒として、盤の上に置かれている。
扇を閉じ、まなは空を見上げた。
桜は、今年も変わらず咲く。
だが、自分が次に見る桜は――
どこの地のものなのか、わからない。
(それでも)
(戦のために嫁ぐのなら、
せめて、誰かを守るための婚姻でありたい)
十一歳の姫は、まだ声に出せぬ願いを、
胸の奥にそっとしまい込んだ。
― まなと桜、夜の縁側 ―
夜風が、障子をわずかに鳴らしていた。
庭に面した縁側。
人払いがなされ、灯りも最小限に落とされている。
まな姫は、膝を抱えるように座っていた。
十一歳の少女そのものの姿だった。
「……ねえ、桜」
呼び方が、少しだけ崩れる。
「私、知ってるの。
私が、里見の“札”だってこと」
桜は、すぐには答えなかった。
隣に座り、同じように足を揃える。
「どこに嫁ぐかで、
誰と誰が味方になるか、敵になるか……」
まなは、唇を噛む。
「もし間違えれば、
戦になるかもしれないって」
月明かりが、まなの頬を淡く照らした。
まだ幼いのに、背負わされすぎた覚悟。
桜は、静かに口を開いた。
「まな姫。
もし……領内に残る道があるとしたら、どう思いますか」
まなは、はっと顔を上げる。
「……え?」
「外へ出される婚姻ではなく、
里見の領内での縁組です」
一瞬、沈黙。
それが、どれほど異例か。
まなも理解している。
「でも……それじゃ、家臣が力を持ちすぎるって」
「はい」
桜は、はっきりと頷いた。
「だから、条件があります」
月を仰ぎ、言葉を選ぶ。
「もし、領内の跡取りとの婚姻なら――
桜と、桜の配下は、全員まな姫の配下になります」
まなの目が、見開かれた。
「……桜が?」
「はい」
「あなた、今……
領内で一番、厄介な存在でしょう」
まなは、少しだけ笑った。
それは冗談めかしていたが、事実でもある。
桜は、照れたように首を振る。
「だからです」
そして、真剣な目で続けた。
「桜たちは、
物流も、金も、人も動かしています。
それを“姫に従う形”にします」
「そうすれば……」
まなが、言葉を繋ぐ。
「姫の名の下に、力が集まる」
「はい。
でも、姫は外から来た誰かではありません」
桜は、そっと言った。
「まな姫は、
“里見の中で育った里見の姫”です」
沈黙。
夜虫の声だけが響く。
まなの瞳が、わずかに揺れた。
「……私、怖かったの」
ぽつり、と零れる。
「どこへ行かされるのかも、
誰の妻になるのかも、
全部、決められて……」
桜は、そっと言う。
「選べるようにしたいんです」
「え?」
「まな姫が、
“残る”か、“行く”かを」
まなは、しばらく黙っていた。
そして、ぽろりと本音を零す。
「……本当は、
ここにいたい」
声が、震えた。
「この領で、
私の知ってる人たちと生きたい」
桜は、静かに頷く。
「それなら」
小さな手を、きゅっと握る。
「桜が、道を作ります」
まなは、驚いたように桜を見る。
「あなた……8つでしょう」
「はい」
「……無茶よ」
桜は、少し笑った。
「もう、慣れました」
まなも、つられて小さく笑う。
そして、真剣な声で言った。
「桜。
もし本当に、その話が通ったら――」
一拍、置いて。
「私は、あなたを裏切らない」
それは、姫としての誓いではなく、
一人の少女の約束だった。
夜の縁側で結ばれた、
誰にも知られぬ“同盟”。
それは、
戦を避けるための婚姻という、
静かな革命の始まりだった。




